やぎ座
生きた言葉の再獲得へ
詩人・金時鐘の出発点
今週のやぎ座は、金時鐘(キムシジョン)が回想した敗戦時の自分の姿のよう。あるいは、リアリティの決定的な受け渡しを経験しようとするような星回り。
日本の植民地支配下の朝鮮で、「国語」と「唱歌」に秀でた「利発な皇国少年」として育ってしまった金時鐘は、日本の敗戦時の自分の姿を次のように思い描いています。
朝鮮文字ではアイウエオの「ア」も書けない私が、呆然自失のうちに朝鮮人へ押し返されていた。私は敗れ去った「日本国」からさえ、おいてけぼりを食わねばならなかった正体不明の若者だった。(『在日のはざまで』)
後に詩人および文学者となっていった彼が繰り返し語っているように、言語は人間の思考そのものをつかさどります。彼の場合、幼少期と少年期においてあまりに無防備に受け入れてしまった「支配者の言語」である日本語が、母語でも母国語でもない一時的なものとして脆くも崩れ去ってしまった訳で、その際にぽっかりと精神にあいた虚無は、いかんともしがたい絶望として体験されたのでしょう。
そんな彼が朝鮮人として立ち返るきっかけとなったのが、戦争中は仕事にもつかず、日がな一日突堤の岩場で釣り糸を垂れているだけだった父親が、朝鮮語で歌ってくれた「クレメンタインの歌」だったのだそうです。
17日にやぎ座から数えて「共同幻想」を意味する10番目のてんびん座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ただ小器用に言葉を操るだけに終わるのではなく、自身の身の内の空疎や絶望をどうしたら埋め得るかという難題に果敢に挑んでいくべし。
クレメンタインの歌
ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)/ナエサラン クレメンタイン(わがいとしのクレメンタインよ)
ヌルグンエビ ホンジャトゴ(老いた父ひとりにして)/ヨンヨン アジョ カンヌニャ(おまえは本当に去ったのか)
金時鐘ははじめてこの歌を聞いた時から30年以上の歳月が経過した1979年に発表したエッセイ「クレメンタインの歌」を、次のように結んでいます。
誰が唄いだして私にまできた歌なのか。どうあろうとこれは私の「朝鮮」の歌だ。父が私にくれた歌であり、私が父に返す祈りの歌なのだ。私の歌、私の言葉。このかかえきれない愛憎のリフレイン――(同上)
彼にとって、父がその生き方をかけて唄っていたクレメンタインの歌は詩に他ならず、それは後にそれに匹敵するものを自分もまた生み出したいと思うに至った大きな課題でもありました。今週のやぎ座もまた、それくらいの重い課題を自身に課してみるといいかも知れません。
やぎ座の今週のキーワード
無言の詩