やぎ座
些細な記憶をめぐって
失われつつあるということ
今週のやぎ座は、岸本佐知子の『死ぬまでに行きたい海』の一節のごとし。あるいは、もはや失われてしまった過去を経由してはじめて現在と遭遇していくような星回り。
新しくてどこか懐かしい――。「発見」というのはいつだって、私たちにそんな感触を伴って与えられる。例えば、岸本佐知子は父の郷里「丹波篠山」の名を冠したエッセイの中で、「いがぐり頭の十歳くらいの男の子が外から走って帰ってきて、井戸端に直行」し、たらいの中で冷やしてあるキュウリを「一本つかんでポリポリうまそうにかじ」っており、外では蝉が鳴いているという記憶を、このところ頻繁に思い出すのだと書いている。
だが、その子どもとはおそらく自分の父であり、だからどう考えても理屈に合わない。そして、ときどき自分と妹をまちがえ、自分の名前さえ忘れてしまう現在の父に丹波の写真を見せても、ただ不思議そうに眺めるだけだという。父が子供の頃、井戸水で冷やしたキュウリが好きだったのか、確かめる機会を著者は永遠に失ってしまったのだ。それを受けて、彼女は次のように書いている。
この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。どこかの誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見た花をきれいだと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていてほしい。
20日にやぎ座から数えて「喪失」を意味する8番目の星座であるしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、記憶の中にある光景が今まさに失われつつあることを遠く想像してみるといいだろう。
流れつつあるということ
客観的に決められた目盛りで寸分の狂いもなく測ることのできる物理的時間のことを、ベルクソンは過去の実績や評価と対応させて「流れ去った時間」と言い、これは後にニュートン時間とも呼ばれ、これは他ならぬ<私>と無関係であるにも関わらず近代以降の社会で変わらずに重視されてきた。
それに対し、今この瞬間に<私>によって感じられる心理的時間のことを、ベルクソンは人生そのものと対応させつつ「流れつつある時間」と言い、こちらは彼の何にちなんでベルクソン時間と呼ばれている。
29歳に時に書いた『時間と自由』の中で、彼は「自由行為は流れつつある時間の中で行われるもので、流れ去った時間の中で行われるものではない」と述べ、通常のわれわれは「みずから行動するよりもむしろ‟行動させられて”いる」のだとしているが、逆に言えば、そこに気が付くことを通して私たちは改めてわが身を‟生きた心地”の中に置き直していくことができるのではないか。今週のやぎ座は、そんな「流れつつある時間」へと自分の立ち位置を寄せてみるべし。
今週のキーワード
失われつつあるということは、流れつつあるということ