やぎ座
背景へのまなざし
死生観をずらしていく
今週のやぎ座は、「死にたれば人来て大根煮(た)きはじむ」(下村槐太)という句のごとし。あるいは、固定観念のうちに閉じていくことを、みずからに戒めていくような星回り。
作者は明治生まれの人で、むかしは誰かが死ねば自宅で葬儀が行われ、当然のように近所の女たちが集まって、訪問客のために大根などを炊き、食事をこしらえたのだとか。
現代よりも、死というものがずっと身近にあった訳で、掲句もまたあくまでそれを日常の一コマとして描き出したのでしょう。
生きている知り合いの数だけ繰り返されるそうした光景は、当然ながら自分が死んだ後にも同じように行われ、それを見つめていくことで作者は現世のしがらみや、そこで生じる困難を乗り越えようとしているのかも知れません。
そうしてこの世はしょせん仮の宿、行くも帰るもひとりなのだということを痛感していく時、それはただ寂しい現実としてそうなのではなく、永遠なるものを受けとったり、それに応えていくための貴重な契機でもあるのだということに改めて思い至っていくはず。
15日にやぎ座から数えて「俯瞰的まなざし」を意味する11番目のさそり座で新月を迎えていくあなたもまた、現代ではなかなか感じにくくなってしまったこうした昔の庶民感覚のなかに現状を打開するヒントを求めていくといいでしょう。
熊楠の自己同定
卓抜した民俗学者にして粘菌の研究者であった南方熊楠(みなかたくまぐす)は、亡くなる2年前の昭和十四年三月十日付の真言僧・水原某宛ての手紙の中で、「小生は藤白王子の老楠木の神の申し子なり」と述懐しています。
「藤白王子」とは藤白神社のことで、熊野の入口と言われている場所。熊楠はこの神社の楠の大木から「楠」の名を授かり「熊楠」と命名されたこともあって、その木をみずからの生命の根源と見なし、自分はその老楠から生まれ出た粘菌人間と思っていたのではないかと思われます。
このことは、単に彼のセルフイメージやアイデンティティといった内面的な話だけに留まるだけでなく、のちに彼が鎮守の森の伐採とセットであった神社合祀への激烈な反対運動へと駆り立てられていく原動力ともなっていきました。熊楠にとってはたかが木一本という判断さえも決して容認することはできなかったのです。
今のあなたには彼ほどに深く自己同定しえるものが何か思い当たるでしょうか?生まれた土地、付けられた名前、込められた思い、宿った縁。今週はそういった自己の背景をずいずいとたどってみるといいでしょう。
今週のキーワード
真の豊かさとは自己の背景にこそあるもの