やぎ座
未熟であることの豊かさ
着地していく感覚
今週のやぎ座は、さながら「未熟の惑星」のごとし。あるいは、一回限りの生の息遣いを取り戻していこうとするような星回り。
『存在の耐えられない軽さ』と言えば、映画化もされた小説家ミラン・クンデラの代表作ですが、当初作者はこの作品に『未熟な惑星』というタイトルを付けようとしていたのだとか。
「惑星」はもちろん地球のことですが、なぜ「未熟」なのか。彼はこう言っています。
人間が人間として在る条件の一つに未熟ということがあり、私たちは若さの何かを知らずに少年期を去り、結婚を知らずに結婚し、自分がどこへ向かっているのかをよく知らずに老境へ入っていく。ゆえに、「老人は自分の老齢に無知な子どもであり、この意味で人間の世界は未熟の惑星なのである」
惑星は「惑う星」と書くように、恒星などと違って宇宙をたえず彷徨っている星であり、確かに私たち人間もまた、いくつになっても現在の自分を知らないという意味で、徹頭徹尾「未熟」である。
とはいえ、作者は必ずしも「未熟」という言葉をネガティブな意味で用いている訳ではなく、ただ放っておくとすぐに「半ば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる」現代という時代の特性について言及しているだけという気もする。
その意味で、やぎ座から数えて「ホーム」や「心理的基盤」を意味する4番目のおひつじ座で下弦の月を迎えていく今週は、いつもより少しだけ地面に着地していく感覚を培っていきたいところ。
視線の反転
いつまで「いつかどこか」の抽象的な幸せや利得のために、現在を生きる身体やこころを犠牲にするつもりなのか。目的過剰の打算的な生き方モデルに釣られ、このまま棒立ちのまま一生を終えるつもりなのか。
開いた口に飛び込んでくるボタ餅の幸運を頼んで待つことは、果たして幸せと言えるだろうか。
例えば、いつまで待ってもこないバスなど無視して、その場に座り込んで生きる。あり合わせの材料で小屋を建て、そのへんで調達してきたもので食事をつくり、バス停そのものを遊園地(ワンダーランド)化していくこと。
そうして遠くへ向けていた視線を「今ここ」の現実に戻し、自身の未熟さを含めた生きていること自体の豊かさに気付いていくとき、そこには新たな現実の種がまかれ、これまで他人行儀だった周囲の人との関わりそのものも変質していくはず。
今週はそんな選択を視野に入れてもいいでしょう。
今週のキーワード
『存在の耐えられない軽さ』