やぎ座
脳のスイッチを切り替える
からだの亡霊
今週のやぎ座は「ひあたりの枯れて車をあやつる手」(鴇田智哉)という句のごとし。あるいは、頭ではなく手から動きを紡ぎだしていくような星回り。
なんとなくおぼろげで、どこかバケモノっぽい雰囲気のある一句ですが、これは「手」という身体性に対する現代人の‟遠さ”を絶妙な曖昧さで作者が形にしてくれたものなのだという風にも捉えられるかもしれません。
「ひあたりの枯れて」というのは、日あたりのいい場所に枯れ草でも生えているのかもしれませんが、こう書かれると日あたりのいい場所まで陰っているかのような感じがしてきます。そこに「車をあやつる手」。
これなども、最初は「中で運転している人がハンドルにのせている手」なんかを最初は思い浮かべる訳ですが、冷静に考えると、道や駐車場など車の外で運転手を誘導している第三者の手のような気がしてくる。
もう、句そのものがそのへんに自然に生えているオバケみたいでもある。でもね、手って本当は人間が文明化していく上で、一番使い込んできたはずの身体部位のはずなんです。ただそれが、現代社会になって目に取って代わられた。
視覚優位の生活に対する、四股の逆襲。ふとそんな言葉が思い浮かんでくるような今週です。もしあなたがいま消費ばかりで何ら生産しない生活を送っているならば、そんな生活を使う身体部位の観点から見直してみるといいでしょう。
風邪をひくと自分がわかる/かわる
今週はいつもの感覚からすると、足踏みしているように感じられるかもしれません。しかし、表面や見た目ではなく、深層や核心部分が変わっていく時というのは、得てして一見停滞しているように見えるものです。
たとえば、風邪をひいた時なんかがそのいい例でしょう。頭はボーっとして、労働の生産性は著しく落ちていき、なんだか蚊帳の外に置かれてしまった気分になる。
お医者さんは、発熱は体に入ったウイルスを免疫が撃退している証拠なのだと言いますが、これは一体どういうことなのでしょうか?
「しかし、ここではっきりしたことは、個体の行動様式、いわば精神的「自己」を支配している脳が、もうひとつの「自己」を規定する免疫系によって、いともやすやすと「非自己」として排除されてしまうことである。つまり、身体的に「自己」を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである。脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は脳を異物として拒絶したのである。」(多田富雄、『免疫の意味論』)
脳みそなんてものはしょせん身体の一部に過ぎません。たえず「免疫というスーパーシステム」の中で調整され、変化しながらそこにある。
そのいっぽうで免疫は、自分のごく一部分を整えたり組み立て直したりしているだけでなく、新しい部分や要素そのものを創り出しながら自己組織化していくのだそうです。
つまり自分ではないものを通して、たえず新しい自分を創り続けているのが免疫であり、今週のやぎ座は、脳みそではなく免疫を働かせていくことがテーマなのだと言えるでしょう。
今週のキーワード
自己と非自己を決定しているもの