
かに座
稽古と本番が地続きな日常へ
精神的リハビリテーションとして
今週のかに座は、「健康な依存対象」としての演劇のごとし。あるいは、神経的な秩序を取り戻すためのリチュアルを日常に取り入れていこうとするような星回り。
横道誠は、美内すずえの『ガラスの仮面』の主人公で、母親から「ツラはよくないし、何のとりえもない子」と蔑まれながら母子家庭で育ちつつも天才的な演技の才能を発揮し、舞台にのめり込んでいく少女・マヤについて、「演劇によってADHD的な不全の報酬系回路を正常化させていると考えることができないだろうか」と述べ、「演劇によってマヤは、ポジティブな依存状態に入り、フローに飲み込まれながら、人間として回復を遂げている」のだとも指摘しています(「演劇という健康な依存対象」)。
こうした回復のメカニズムは、ドーパミンの伝達異常により「注意の焦点を保ちにくい」「何かをやり遂げても満たされない」など慢性的な不全感を抱えるADHDの当事者たちにとってだけでなく、より標準的な心身を持ちつつも活発化しがちな脳のデフォルト・モード・ネットワーク(負の反芻思考)に引きずられ、生きづらさに苦しんでいる人たちにとっても大いに関係があるはず。
ここで言う「演劇」とは、作中のマヤの台詞を借りれば「(舞台上で)まったく別の人格をもった人間に身も心もなっちゃう」ことを意味しますが、その本質は「自己制御が困難な人間が他人と協働することで神経的な秩序を取り戻すための儀式」とも言い換えられます。
そしてそうした意味での「演劇」は、何も実際の舞台に上がったり、ワークショップに参加するまで行かなくとも、例えば、「たまには“今日の役”を決めて外出する」とか、逆に「週に1度は“観客に徹する日”をつくる」といったリチュアル的実践を取り入れてみることでも成立していくのではないでしょうか。
10月30日にかに座から数えて「関係の劇場化」を意味する8番目のみずがめ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、日常をちいさな劇場に変え、会話やルーティンを“演技”として意識してみるといいでしょう。
「まだ何もかもやってみた訳じゃない」
ここで思い出されるのが、サミュエル・ベケット作の不条理演劇の金字塔「ゴドーを待ちながら」です。
舞台はとある道端、今日を生き延びるのに必死な二人の浮浪者ヴラジーミルとエストラゴンが、とにかくその人が来れば救われると信じているゴドーなる人物を待ち続ける二日間が描かれるのですが、そこにはストーリーの起伏はまったくありません。
フーコーの言葉を借りれば「今日も他の日々と同じような一日であるか、むしろ他の日々とまったく同じということはない一日」なのです。
以下にその第一幕の冒頭場面を引用してみましょう。
エストラゴンが道端に坐って、靴を片方、脱ごうとしている。ハアハア言いながら、夢中になって両手で引っ張る。力尽きてやめ、肩で息をつきながら休み、そしてまた始める。同じことの繰り返し。
ここでヴラジーミルが出てきて、次のようなやり取りをするのです。
エストラゴン (また諦めて)どうにもならん。
ヴラジーミル (がに股で、ぎくしゃっくと、小刻みな足どりで近づきながら)いや、そうかもしれん。
(じっと立ち止まる)そんな考えに取りつかれちゃならんと思ってわたしは、長いこと自分に言い聞かせてきたんだ。ヴラジーミル、まあ考えてみろ、まだなにもかもやってみたわけじゃない。で……また戦い始めた。
今週のかに座もまた、たとえ今日が昨日までとほとんど同じような一日であったとしても、まだまだできることがあるんだと、ヴラジーミルのように自分に言い聞かせてみるといいでしょう。
今週のキーワード
自分の意志の力などはなからあてにしないこと







