かに座
変になにかが冴えてくる
生成の現場に立つということ
今週のかに座は、確かな「ふれあい」を含んだ伴走体験のごとし。あるいは、受け身か自分主導かという二者択一の、どちらでもないような関わり方に導かれていくような星回り。
美学者の伊藤亜紗は『手の倫理』のなかで、触覚の倫理性ということを取りあげて、「さわる/ふれることは、避けようもなく『他人のことに口を出す』行為なのです。他者を尊重しつつ距離をとり、相対主義の態度を決め込むことは不可能。この意味でさわる/ふれることは、本質的に倫理的な行為」なのだと述べているのですが、ではこうすれば正解です、問題ありませんという教科書がない中で、どのような積極的な立場がありうるのか。
伊藤は、全盲の女性ランナーと目の見える伴走者との伴走体験の解説する中で、こうも述べています。
「伴走」というと、見える人が見えない人をサポートする、福祉的な行為だと思われがちです。いかにも「介助」といった感じ。ところが実際の身体感覚としては、そこに「伴走してあげる側」と「伴走してもらう側」というような非対称性はない。つまり、伝達ではない、生成的な関係が生まれているのです。
つまり、ここでは一方が<主>で他方が<従>のような上下関係に基づく一方的な伝達によるコミュニケーションとは一線を画した、互いのやり取りのなかで物事の意味を作り出していくような「生成的」なコミュニケーションが生み出されているのだと。
その意味で、8月4日にかに座から数えて「身体性の深まり」を意味する2番目のしし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、手を出すのが難しい状況でこそ、互いのする/されるが反転していくような「ふれあい」を追求していきたいところです。
闇と戯れる
岡崎京子の『Blue Blue Blue』に、「匂いはいつもあやうい。ことばではない何か。何かが反応してしまう。匂い。夏の。夜の。アスファルトの。あなたの。匂い。」という独白が出てくるのですが、これがもし明るい蛍光灯の下で吐かれたセリフだったなら拍子抜けしていたことと思います。
まとっている闇が深ければ深いほど、その中で立ちのぼってくる感覚や印象は鮮烈になっていくもの。先の「生成的コミュニケーション」だとか「ふれあい」のようなことを、かつての日本人は当たり前に体感していましたし、今よりずっと上手に楽しんでもいました。
例えば集まって月の出を待つ「月待」や、怪談を語りあう「百物語」、野山に繰り出す蛍狩りや虫聴きなど、さまざまな機会を持っていたのです。
ふだんは家の闇に身を浸して眠りにつき、特別な夜にはいろんな闇へと繰り出しては闇に親しみ、時に夜更かしや徹夜をして遊んでいました。そこにはもちろん光もありましたが、あくまでそれを包む圧倒的な闇への感覚をむしろ際立たせるためのささやかな“呼び水”だったのです。
今週のかに座は、いろんな意味で理性の「灯り」をOFFにして、身体性の普段あまり入らないようなスイッチをONにしていくことを心がけてみるといいでしょう。
かに座の今週のキーワード
闇が深ければ深いほど