かに座
ねじれ人間の巻き戻し
「戦慄すべき何か」への開かれ
今週のかに座は、得体の知れない私への接近。あるいは、出来事の表面だけを見て判断をするのでなく、その根源を見つめ、自身の人間観についてを考え直していくような星回り。
例えば、仏教学者の末木文美士は1986年の中曽根首相の施政方針演説において、「東洋哲学の真髄」として引用された「山川草木悉皆成仏」という言葉に着目して、そうした発想の根源を平安時代初期に生きた安然(あんねん)という忘れられた大思想家の唱えた草木成仏論に見出しています。
草木成仏論とは、簡単に言えば、人間をはじめとした意識をもった主体であるところの「有情」と、無生物や草木など意識を持たない環境であるところの「無情」を区別せず、どちらもみずから/おのずから発心・修行・成仏するものとする自然観であり、人間観であり、世界観のこと。すなわち、動物と人間とを絶対的に線引きし、機械のように何も感じず何も思わない無機物と見なすデカルトの動物機械論とは対極の考え方です。
ところで、有情と無情を同等視するということは、ただちに無情をすべて理解可能なものと考えることにはならない。むしろ逆である。(…)自然もまた、科学によって解明され、理解できるのはそのごく一部に過ぎない。その大部分は了解不可能な他者の領域に属し、どんなに科学が発展しても解明しつくされることはあり得ない。(…)自然は一方で人間に限りなく優しいが、他方でそれは恐ろしい他者でもある。そのような他者領域の根底に深まっていくとき、安然が「真如」と呼んだものが次第に明らかになっていく。それは万物が生成し、帰滅していくところではあるが、実体的に何かがあるわけではない。それは他者の他者性の根源ともいうことができ、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の持つ両義性とも比せられる。(『草木成仏の思想―安然と日本人の自然観―』)
このヴィシュヌ神の両義性とは、生成と消滅、統合と滅亡、穏やかさと狂暴さのことですが、末木は自然と同じように、私もまた得体の知れない存在であり、その得体の知れなさに接近していくことができたとき、科学では決して解明も制御もできないような「戦慄すべき何か」であり、「墜ちていく闇」であり、しかし「逆に光が生まれてくる場所でもあ」るような、見えざる世界が顕わになっていくのではないかと述べています。
5月15日にかに座から数えて「実存の深み」を意味する2番目のしし座で上弦の月を迎える今週のあなたもまた、自然や環境との関わりを通して他ならぬ「私の得体の知れなさ」へとグイと接近してみるべし。
度重なる「あれだ」の原点
文芸評論家の加藤典洋は日本の戦後問題を論じた『敗戦後論』のまえがきで、小学校の遠足で別の小学校の集団と遭遇した際、両校から代表者が出て相撲を取ることになった話について、記憶をたどりながら次のように書いています。
わたし達の学校の代表が土俵際につめられ、踏ん張り、こらえきれずに腰を落とした、と、うまい具合に足が相手の腹にかかり、それが巴投げになった。そのとたんに、何が起こったか。わたし達の学校の生徒が一斉に拍手してはやし立てた。一瞬のできごとだった。相撲は柔道に代わったのである。
その後の結末については覚えていないのだという。ただ、「一瞬、あっと思い、次の瞬間他の生徒と一緒に拍手した、その時のうしろめたさを忘れられない」のだと言い、のちに1945年8月15日のことを、著者は実際には経験していないものの、後で勉強して「あれだ」と思ったのだと述べています。
つまり、敗戦国日本の戦後はどこか「さかさま」であり、その中核に「ねじれ」を抱えて存立している社会であるにも関わらず、その「ねじれ」が「ねじれ」としてすら受け止められていないという点に、著者は違和感を表明せざるを得なかった訳です。
同様に、今週のかに座もまた、自分が依って立っていると思っていた現実の歪みやねじれに改めて目を向けていくことになっていくでしょう。
かに座の今週のキーワード
ねじれをねじれとして認識すること