かに座
業をわが手に抱いて
己れが人間であることのおぞましさを
今週のかに座は、「佛の教えは毛穴から」という言葉のごとし。あるいは、みずからの業の深さを改めて思い知っていくような星回り。
これは作家の車谷長吉が30歳の時に東京で身を持ち崩し、無一文で郷里へと逃げ帰った時、実際に母親に言われた一言なのだそうです。言われた当時はピンとこなかったそうですが、その後9年間にわたり住所不定で関西各地のタコ部屋を転々とする日々を送るうち、少しだけ身に沁みてきたのだと。
佛の教えというのは、えらい人が書いた佛教書を読めば「目から」入るのでもなければ、高名な坊さんの話を聞いて「耳から」入るわけのものでもなく、日々、骨身を砕いてその日その日を生きていれば、ある苦さとして「毛穴から」沁みるということである。(…)佛への信仰とは、己れが人間であることのおぞましさを、全身の「毛穴から」思い知った、その先にあることではないか。言うなれば、自己の中の悪に呪われた「生霊のうめき」のようなものではないだろうか。(『業柱抱き』)
そして、車谷は百姓として過酷な農作業に従事してきた母親の、「えらい目に逢うたら、佛の教えは毛穴から沁みる。うちは生きて極楽浄土を見るがな。」という言葉でエッセイを締めくくっている。
この前段で、母親は自分たちのような百姓は「日に日に田んぼでえらい目に」逢っているが、「秋になって広い田んぼに黄金色の稲穂が稔ったら」「ここがうちの極楽や、と思うがな」とも語っています。
翻って、私たちの「極楽浄土」はどこにあるのでしょうか。12月13日にかに座から数えて「修行」を意味する6番目のいて座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自分が日々何を毛穴から沁みさせているのか、改めて振り返ってみるといいでしょう。
自分の人生の主人となること
「卓越した才能」とか、「他の人にはない個性」など、滅多にあるものではありませんし、そもそもすべての子供には固有の才能が隠されていて、それを引き出して輝かせてあげなければならない、などというのは戦後民主主義教育の欺瞞という他ないでしょう。
なぜなら、人間はみな大差のない存在であって、人に抜きん出る必要など本来ないからです。よく言われる「自己実現」というのも、高い社会的地位を得たり、人気が出て、成功することをそう言っている訳ですが、それは「有名になる」ことや「お金持ちになる」ことに囚われ、社会が用意した価値観の奴隷になっているだけです。
もちろん、そうした価値観から外れたところにだって努力の積み重ねは求められます。けれど、ごく平凡に、無名のまま努力をしていくことは、つまらないことでも、虚しいことでもありません。
逆に、先の車谷の母親のように、無名であっても、平凡であっても、いろんな苦しみ、哀しみ、そして見苦しい自分というものに耐えたり、のた打ち回って、それでいながら煩悩を隠さずに生きることの方が、よほど「自分の人生の主人となる」ことに近いように思います。
今週のかに座もまた、どちらの方向へ向けておのれを律していくべきか、改めて問い返してみるといいでしょう。
かに座の今週のキーワード
無名の人生への接近