かに座
手に生き様は表れる、か?
「労働する/制作する手」と「鏡としての手」
今週のかに座は、新しい「手の物語」を求めて。あるいは、言葉や数値では表し得ない手触りの価値に気が付いていくような星回り。
進化史上、手はその機能的発達が脳の発達に伴わなければ、ヒトはヒトになりえかった程重要な役割を果たしてきましたが、今私たちは改めて「労働する/制作する手」をどのように豊かに、そして固有に語りえるかという問題に直面しつつあるのかも知れません。
そこで思い出されるのが、
では、なぜ精神医学は手相にほとんど関心を示さないのだろう。思うに精神科医は、あまりに多くのことがたちどころにわかるものには幾分懐疑的なのである。
ソーレルの手相書で語られるのは、いわば「労働する/制作する手」の対極にある、生活史や性格や健康や運命の反映としての、つまり「鏡としての手」であり、中井はそれを読み解く手相術に対して、先のように語る一方で「たとえばロールシャッハ・テストの代用となるだろうか。かもしれない。手には労働や感情の個人史が深く刻印されているだろう」とも述べてもいます。
おそらく、いま私たちに求められている手の語り方というのも、従来の「現実原則にもとづく問題解決」としての手の側面と、中井が扱ってみせたような「鏡としての手」の側面とを統合するなかでやっと紡ぎ出すことできるような類のものなのではないでしょうか。
15日にかに座から数えて「労働」を意味する6番目のいて座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自分なりの新しい「手」の物語を紡ぎ出してみるといいでしょう。
表情豊かな手
手の物語という言葉でふと思い出されるものに、架空の小さな町のおかしな住人たちを描いたシャーウッド・アンダーソンの連作短編『ワインズバーグ、オハイオ』に収録された「手」という小品があって、例えば次のような記述が出てきます。
ウィング・ビドルボームは両手でたくさんのことをしゃべった。その細くて表情豊かな指、常に活動的でありながら常にポケットのなかか背中に隠れようとする指が、前に出て来て、彼の表現の機械を動かすピストン棒となる。ウィング・ビドルボームの物語はこの両手の物語である。その落ち着きのない動きは、籠に入れられた鳥が羽をばたつかせるのに似ていて、そのためウィングという名前がつけられた。町の無名詩人が考えついたのだ。本人はというと、自分の手に怯えていた。いつも手を隠すようにし、ほかの人びとの手を見ては、自分の手との違いに驚いていた。畑で一緒に働く者たちや、田舎道でだらけた馬たちを御する者たちの手はおとなしく、表情がなかったのである。
このあと、ビドルボームという男には、かつて情熱的な教師として教え子たちにも慕われていたが、ある決定的な誤解をうけてその存在を追放され、名前を変え、土地を変えて逃げのびてきたという悲しい過去があることが示されるのですが、それでも作者は作品の終わりを、やはり自宅で過ごすビドルボームの手をめぐり次のような表現で結んでいます。
男がひざまづいている姿は、教会で礼拝を執り行う仔細のようだった。表情豊かな指が神経質そうに動き、光のなかできらりと光ったり、光の外へ出ていったりを繰り返している。祈りながらロザリオの数珠を次から次へと素早くつまぐる、敬虔な信者の指に見まがうほどだった。
今週のかに座もまた、ビドルボームの手にまなざしを送り続けた作者のように、みずからの手や気になった人の手をじっと観察してみるといいかも知れません。
かに座の今週のキーワード
心寂しき人々の、その負の部分を含めて肯定しようとすること