かに座
大地に還るべく
清らかでしかない人間関係は気持ち悪い
今週のかに座は、腐敗していく自分のセルフポートレートを撮り続けたシンディー・シャーマンのごとし。あるいは、どす黒い泥の中からこそ白く美しい花が咲くという教えに立ち返っていくような星回り。
「前衛の女王」とも呼ばれるシンディー・シャーマンは、70年代後半から自分自身を被写体としたセルフポートレイトの代表的なアーティストとして知られていますが、80年代後半には「ディザスター(惨事にて)」という連作において、自ら汚物や腐敗物の支配する風景の中で死体を演じたり、異形の動物や怪物に扮することで、恐怖、病、死といったネガティブな観念を自己像の解体過程と見事に結びつけていきました。
写真は単に美しい作品として存在するだけでなく、見る側と見られる側との間に一種の権力関係を生じさせます。見る側、鑑賞する側は、見られる側を値踏みしたり、商品として買い取ろうとするために、撮り手や作り手もそうした“パトロン”にできるだけ気に入られるよう作品を作ろうとするようになっていく訳です。
見る側が見るだけにとどまらず、作品の中に入り込むことによって、見る側こそが作品を作っていくという傾向に対し、シャーマンのセルフポートレイトはそうした権力関係からの逸脱に他ならず、権力関係においていかに人間の不愉快な側面が排除され、作品の評価が歪んでしまうかということをえぐり出しているのだとも言えます。
同様に、9月4日にかに座から数えて「仕事の流儀」を意味する6番目のいて座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、「見る/見られる」関係のなかで夢見られたユートピアから泥にまみれたリアルへとまなざしを引き戻していくべし。
陋巷に生きる
「陋巷(ろうこう)」とは、狭い路地、俗世間のことで、「陋巷に生きる」と言えばほとんど「零落」に近いかも知れません。零落にはそれに伴う快楽があり、「陋巷に生きる」というのもそういう快楽をこそ追求していく生き方のひとつの型を言い表している訳です。
例えば、永井荷風(1879~1959)は高名な小説家でありながら、浅草の楽屋に行ってストリッパーたちと話すのを好んだり、私娼街を歩き回り、ごちそうも浅草あたりのとんかつ屋でとるとか、自分をひけらかすより、巷のなかに身を隠し、江戸庶民の世界に身を浸そうとしました。とくに、最後は吐血して孤独死をするのですが、それは千葉・市川の小さな一軒家の六畳間で、脇には空になった一升瓶が転がっていたそうです。
長く生きているとどうしても社会的地位や肩書きがくっついてしまいますが、人間にはイカロスのようにどんどん高みへ登っていきたいという気持ちと、重心に引かれて下へ下へと降りていきたい気持ちの、両方があります。
そして今のあなたの場合、後者の、何にも持たない生まれてきたときの自分に戻り、大地に還っていきたいという方向性が強まっているのだと言えるでしょう。今週は、できるだけ自然との深い互酬関係の中に自分を沈めていきたいところです。
かに座の今週のキーワード
累からおりる