かに座
(空白)
行方不明になること
今週のかに座は、達することができない尖端としての岬のごとし。あるいは、そちらには行けない世界としての“彼方”を垣間見ていくような星回り。
古来、岬を巡ることは船乗りたちにとって非常に厄介な冒険でしたが、それは地上を行く旅人にとっても同様でした。
その付け根の部分を直線的に横切ることができれば短時間で済むのですが、大抵はそれがかなわず、海沿いに岬をぐるりと経由しようとすると思いがけず長い時間を要するのです。つまり、交通において岬はつねに余計な迂回や遠回りであり、寄り道や逸脱を含み、時間においては空白ないしカット編集されるべき無駄を意味するのです。
そして、どこまでも長くのびる岬の尖端へ向かって歩を進める者は、その道すがらこう思うはず。「岬のむこう側にはなにがあるのだろう?」と。
岬の尖端に向かうにしたがって波は荒くなり、波しぶきの中で岬はますます霞んでいく。岬の尖端はつねにこちらの“彼方”にあるのだ。けれど、尖端は存在しない訳ではなく、尖端が存在しなければ岬は岬ではなくなる。にも関わらず、いつまでたっても尖端には達することができず、それは「どこにもない場所」として中空に漂い続ける。
歩を進める限り、尖端との距離は縮小し続けるが決して無化されず、ゼロにはならない訳ですが、だからこそ岬にはつねにそれ自体のうちに「絶対的他者」が内包されているのだと言えるでしょう。
同様に、5月4日にかに座から数えて「最接近」を意味する8番目のみずがめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、晴れやかなあきらめを心に抱いていくことになるはず。
「歩き続ける者」としてのイエスとその弟子
例えば、福音書にはイエスが歩いて移動する描写が頻繁に登場することに気が付きます。そして、それは同時にイエスがこれと思って接近した人々へ付与する性質でもありました。
その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。(『ルカ福音書』五・二十七)
このレビとは、後の12使徒の一人であるマタイのこと。イエスの弟子たちは、こうしてそれまで自分が属していた社会的な立場を捨ててイエスに従うのですが、聖書学者ゲルト・タイセンによれば、イエスの活動の核心はその恒常的な移動性にこそあるのだと言います。
つまり、特定の場所に定住しない脱・社会的な生活形態ゆえに、イエスやその弟子たちは病気の治癒などの特殊能力を持つカリスマ集団たりえたと見なされたのです。
今週のかに座もまた、これまでの文脈から分離していく中で、次第に自分が再構成されていくのが実感されていくかも知れません。
今週のキーワード
恒常的な移動性