かに座
弱き人間を突き放す
皮膜と倫理
今週のかに座は、泉鏡花の『夜叉ヵ池』という戯曲のごとし。あるいは、人間が人間であることの条件を裏側から見ていくような星回り。
泉鏡花がはじめて書いた戯曲であるこの話では、異界と地上世界とが同一空間においてうすい‟皮膜”に隔てられつつ存在しているのですが、あるきっかけをもとに両者が接触し、地上世界は大変なことになっていきます。
この話の主人公はある意味で「倫理」であり、その象徴としての皮膜であると言っていいでしょう。人間たちの倫理性が破綻すれば、皮膜は突き破られて異界の存在である水神などの自然精霊が美しくも残酷な裁きをくだすのみ。
そこでは人間は、主人公たる倫理のつねに傍らにありながらも、どこかで疎ましく思っていたリ、ひょんなことから裏切ってしまう‟弱き存在”なのです。
22日(日)にかに座から数えて「客観視すべきもの」を意味する7番目のやぎ座へと太陽が移っていく直前期にあたる今週のあなたもまた、自分の中にまだまだ潜んでいる弱さや人間味というものを、否が応でもあぶり出されていくことでしょう。
鬼神力と表裏としての観音力
この話に似た構造としては、ゲルマン神話のミズガルド(「中央の囲い」の意)の蛇の話があります。
この蛇は、神々の黄昏のときが到来すると、とぐろを巻いて世界を包囲していたその守護霊的役割を放棄して、四大精霊(火、水、土、風)を解き放ち、地上世界に天災をひき起こして、世界に終末を呼び寄せるのです。
自然精霊に対するこうした畏怖と賛嘆の両極性感情は、鏡花の場合は観音信仰として現われましたが、それについては以下のように述べていました。
「僕は明かに世に二つの大なる超自然力のあることを信ずる。これを強いて一纏めに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぼうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである。鬼神力が具体的に吾人の前に現顕する時は、三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一本脚傘の化物ともなる。世にいわゆる妖怪変化の類は、すべてこれ鬼神力の具体的現前に外ならぬ。(中略)念々頭々かの観音力を念ずる時んば、例えばいかなる形において鬼神力の現前することがあるとも、それに向ってついに何等の畏れも抱くことがない。されば自分に取っては最も畏るべき鬼神力も、またある時は最も親したしむべき友たることが少くない。」(「おばけずきのいわれ少々と処女作」)
鏡花はその作品世界を通してもっぱら鬼神の側から人間を見、逆説的に観音を捉えようとしていたのかも知れません。
そして、今週のあなたもまた、自分が人間であることを棚に上げられるような視点の置き所をしかと持っていくことがテーマとなっていきそうです。
今週のキーワード
両極性感情