
おひつじ座
馴れ合いは御免被る

神なき森の中の見えぬ道
今週のおひつじ座は、「森たどる黒衣の神父ほととぎす」(大島民朗)という句のごとし。あるいは、皆が口を閉ざしている問いをあえて口に出して問うていくような星回り。
「ほととぎす」は古来より夏を告げる鳥として、またその鳴き声の鋭さと切なさゆえに、死者の霊、恋の嘆き、無常の感情を投影され、死や冥界と縁が深い鳥と捉えられてきました。
しかしこの句の「ほととぎす」は、そうした和歌的情緒に沈むのではなく、「森たどる黒衣の神父」という西洋的なイメージと和の季語を衝突させ、空間と時間を異化させるように配置されています。この異種混淆(こんこう)の試みによって「ほとどぎす」はただの季節の鳥という存在から離れて、深い沈黙の森をさまよう異人の耳にとどく異界の響きという、ある種のアクロバットな仕掛けとして機能していくのです。
「黒衣の神父」は信仰の象徴であると同時に、現代では「答えのない問いの体現者」とも言えます。科学と合理性(合目的性)の時代にあって、神父は沈黙する者であり、迷い続ける者の姿を帯びるはず。
そう考えると、「森をたどる」という行為も文明から離れ、記号化しえない世界をさまよっていく越境的な旅に他ならない。そして、そこでどこからか聞こえてくる「ほとどぎす」の声というのは、失われたものの気配であり、いまだ言語化され意識化されていない「声なき声」のメタファーとも言えるのではないでしょうか。
7月7日におひつじ座から数えて「受発信」を意味する3番目のふたご座に「革新性」の天王星が移っていく今週のあなたもまた、「いまだ応答されぬ問い」を発していくなかで、そこにどこからともなく響いてくる一声を感じ取っていくことができるかも知れません
内向きの予定調和ほどカッコ悪いものはない
「若者の未来の自由は、親を切り捨て、古い家族関係を崩すことから始まる―。愛情過多の父母、精神的に乳離れできない子どもにとって、ほんとうに必要なことは何なのか?」
そう銘打たれた寺山修司の『家出のすすめ』が刊行されてから、既に50年以上が経過していますが、「家出のすすめ」の他「悪徳のすすめ」「反俗のすすめ」「自立のすすめ」の4章からなる本書のうちから、「悪徳」の箇所から以下の一節を引用してみます。
だいたい、他人の悪口をいうというのは、サーヴィス行為であります。いいながら、自分もすこしは爽快な気分になりますが、いわれる相手がつねに主役であり、いっている自分が脇役であるということを思えば、「いわれている当人」ほど爽快な気分とはいえません。キリストは「右の頬を打たれたら、左の頬をさし出せ」と言ったそうですが、これは右手で百円もらったら、左の手もさし出せ」というのと論理的におなじであり、かなり物欲しい教えであるようにおもわれます。だから、悪口をいわれたら、悪口をもってこたえねばならない。それが友情であり、義理というものであります。
寺山は「友情」という言葉を使っていますが、何かと世間の評判やSNSでのちょっとした言動が火種となりがちな現代においては、こうした意味での友情はきわめて成り立ちにくいものとなってしまったように思います。
代わりに、互いの傷をなめあうジメジメとした沼のような集まりや、当たり障りのない世間話や自己愛を担保するための社交辞令ばかりが飛び交う“大人”の集まりが目立ちつつも、じつは「心は孤独な現代人」というオチに回収され続けている訳ですが、それもこれも、寺山が言うところの「物欲しい教え」を卑しいとか美しくないと感じる感覚や美意識がすっかり麻痺してしまっているからなのかも知れません。
その点、今週のおひつじ座の人たちは、「悪口にたいして悪口でこたえる」くらいの潔さと美意識とを発揮していきたいものです。
おひつじ座の今週のキーワード
「サーヴィス行為」としての悪口





