
おひつじ座
移り変わりを促す

中空としての月
今週のおひつじ座は、日本神話における月の神のごとし。あるいは、自身の人生や生活を裏から支えてくれる存在や場所に改めて敬意と感謝を捧げていこうとするような星回り。
日本で最初の夫婦神として『古事記』に登場するイザナキとイザナミは、太陽の女神(アマテラス)と嵐の神(スサノオ)と月の神(ツクヨミ)の三貴子を生み、アマテラスは天の国である高天原、ツクヨミは夜の国、スサノオは海原と、それぞれに支配地が与えられたとされています。
ただ、太陽の女神と嵐の神がしばしば話に登場してきては活躍しているのに対し、『古事記』にも『日本書紀』にも月の神は奇妙なほどにまったく登場してきません。これは、古代から日本人が月を深く愛でてきたこと、最古の和歌集である『万葉集』では月を詠んだ歌は多く見つかること(逆に太陽を詠んだ歌はほとんどない)などを鑑みると、なぜこれほど日本神話において月の神が完全に無視されているのかという疑問はいよいよ深まってきます。
この問いに対し、日本人の心のありようについて探求し続けた河合隼雄は、エラノス会議での講演をまとめた『夢・神話・物語と日本人』の中で次のように自説を述べています。
月の神は非常に重んじられているけれども、それは神々の中心に位置していながら、何もしないという逆説的な役割を担っていることによるのである。(…)このトライアッド(三神一組)のうちの他の二つの神である太陽の女神も嵐の女神も、日本の神々の中心の神となる役割を担いきれていないということである。
これは言い換えれば、単体では中心的役割を担えない太陽の女神と嵐の神とが、それぞれが相手を補償しあいつつ、微妙な相互作用を形成している中で、何もしない月の神こそがその中心的位置にいることで全体のバランスが成り立っているのだ、ということです。
2月28日におひつじ座から数えて「潜在」を意味する12番目のうお座で新月(種まき)を迎えていく今週のあなたもまた、自分なりのトライアッドの最も目立たない部分にこそ、意識を向けていきたいところです。
絶対的距離の導入
春は濃厚な死の気配が漂う季節でもありますが、イザナミが火の神の出産によって死んだとき、この最初の神の死は「神(かん)避(さ)りましき」と表現されました。これは原初において死が空間的なものであったことを示しており、さらに「避る」という営為は瞬間的なものではなく、新しい時間的連続の開始を意味していました。
ただここで注意を向けるべきは、イザナギはなぜ愛しいわが妻の死体を前に、ただ「み枕方にはらばひ、み足辺にはらばひて哭」いただけに留まったのかということ。なぜ胸乳を、くちびるを貪り、男性の肉身と女性の屍体は重なり、絡みあわなかったのか。
イザナギとイザナミ。生においては分かちがたい一体であったものが、死においては分かたれなければならない。「枕方」と「足辺」、この「方」や「辺」の1字に込められた断絶感は、生者の側が規制した死者との距離であったのではないかと思われますが、一方の死者もまた「神避る(離る)」ことによって、絶対的距離を導入したのです。
今週のおひつじ座もまた、もしある種のメタモルフォーゼを引き起こしていきたいならば、まず何と誰と絶対的な距離感を保っていかなければならないのかを考え、相応の振る舞いを心掛けていくべし。
おひつじ座の今週のキーワード
たえず満ちては欠けゆくものとしての月





