おひつじ座
大それたことなどできない
四谷から帰れ、馬鹿野郎。
今週のおひつじ座は、いっそ匙を投げていくような星回り。あるいは、下手に抱え込むよりは、パッと手を放していくことで、自分も相手も楽にしてあげること。
現代人の感覚だと「匙を投げる」と言われると、なんとなく相手を突き放してしまったり、医療者側がこの病人は何をどう調合しても助かる見込みがないと見放したり、最後まで相手と寄り添おうとしない、ひどい人間のすることのような印象を受けますが、果たしてそうでしょうか。
例えば、太宰が自身の女性観を作品化してみせた『女類』には、主人公の男と同郷の先輩の次のような会話が出てきます。
死ぬというんです。わかれたら、生きておれないと言うんです。何だか、薬を持っているんです。それを飲んで、死ぬ、というんです。生れてはじめての恋だと言うんです。
お前は、気がへんになってるんじゃないか、馬鹿野郎。さっきから何を聞いていたのだ、馬鹿野郎。僕は、サジを投げた。ここは、どこだ、四谷か。四谷から帰れ、馬鹿野郎。よくもまあ僕の前で、そんな阿呆くさい事がのめのめと言えたものだ。いまに、死ぬのは、お前のほうだろう。女は、へん、何のかのと言ったって、結局は、金さ。運転手さん、四谷で馬鹿がひとり降りるぜ。
ひどい偏見ではありますが、男性と女性は人類とその他の類のごとく、どこかで決定的に分かり合えない存在であり、下手に分かったような気になっているととんでもない目に合うぞと伝えているのであり、実際主人公はねんごろになっていた女性を死なせてしまいました。
中途半端に介入したり振り回すなら、いっそ「匙を投げる」方が相手を助けることもある。
それは1月4日におひつじ座から数えて「他人事」を意味する7番目のてんびん座で下弦の月を迎えていく今週のあなたにもまた、どこか通じるところがあるように思います。
“玩具”は一度捨てるべし
それまで無名だったジャン=ジャック・ルソーは、38歳の時に「学問と芸術は習俗の純化に貢献したか」というテーマの懸賞論文で、啓蒙主義全盛の社会情勢下にも関わらず、大胆にも学問や芸術こそ人々を退廃させたのだと否定的な論陣を張ったことで、一躍有名になっていきました。
彼の思想家としてのデビュー作『学問芸術論』はそうした主張をまとめた小論であり、彼はそこで学問の進歩が傲慢な精神や贅沢の蔓延をもたらし、18世紀半ば当時の学問芸術を単なる貴族の自己満足でしかないと、厳しく糾弾したのです。
とはいえ、ルソーはそこですべての学問を否定した訳ではなく、知識の教育ではなく徳の教育こそが必要であり、そのためにはなくても困らない玩具のような「貴族の学問」はいったん捨てて、長年染みついた文化のしがらみを取り去ることで初めて、「誠実や歓待や正義」などの本当に必要な徳の大切さが身に沁みてくるのであり、それを促す限りにおいて学問や芸術は意味を持つと考えた訳です。
確かに、学問を身につけたり、何かしら“専門家”然としてくると、自然やこの世界の在り様に対する畏敬の念を失っていくというケースは現代でも珍しくありません。その意味では、先の『女類』の主人公の男性を「学問」や「知ったかぶり的な態度」に、女性を「自然や宇宙」、「人間自身のこと」などに置き換えてみてもいいかも知れません。
今週のおひつじ座もまた、自分の無意識的な“偏り”をただしたり、より自分本来の自然に近い状態へと戻っていこうとする作用が働いていきやすいでしょう。
おひつじ座の今週のキーワード
宇宙は学問をどこまで必要とするか?