おひつじ座
そこのけそこのけ
※7月2日配信の占いの内容に誤りがございました。お詫びして訂正いたします。(2023年7月3日15時11分更新)
内向きの予定調和ほどカッコ悪いものはなし
今週のおひつじ座は、「サーヴィス行為」としての悪口のよう。あるいは、無意識の内になれ合いに陥っていた関係を脱し、ありうべき大人の交友していこうとするような星回り。
若者の未来の自由は、親を切り捨て、古い家族関係を崩すことから始まる―。愛情過多の父母、精神的に乳離れできない子どもにとって、ほんとうに必要なことは何なのか?
そう銘打たれた寺山修司の『家出のすすめ』が1972年に刊行されてから、既に50年がたちました。50年といえば、47歳で没した寺山本人の人生よりも長い月日であり、これは寺山がすでに現代人にとって父の世代から祖父の世代の人物となったことの証しでもあるように思います。
本書は「家出のすすめ」の他「悪徳のすすめ」「反俗のすすめ」「自立のすすめ」の4章からなっていますが、このうち「悪徳」の箇所から目を引いた一節を引用しておきます。
だいたい、他人の悪口をいうというのは、サーヴィス行為であります。いいながら、自分もすこしは爽快な気分になりますが、いわれる相手がつねに主役であり、いっている自分が脇役であるということを思えば、「いわれている当人」ほど爽快な気分とはいえません。キリストは「右の頬を打たれたら、左の頬をさし出せ」と言ったそうですが、これは右手で百円もらったら、左の手もさし出せ」というのと論理的におなじであり、かなり物欲しい教えであるようにおもわれます。だから、悪口をいわれたら、悪口をもってこたえねばならない。それが友情であり、義理というものであります。
寺山は「友情」という言葉を使っていますが、何かと世間の評判やSNSでのちょっとした言動が火種となりがちな現代においては、こうした意味での友情はきわめて成り立ちにくいものとなってしまったように思います。
代わりに、互いの傷をなめあうジメジメとした沼のような集まりや、当たり障りのない世間話や自己愛を担保するための社交辞令ばかりが飛び交う“大人”の集まりが目立ちつつも、じつは「心は孤独な現代人」というオチに回収され続けている訳ですが、それもこれも、寺山が言うところの「物欲しい教え」を卑しいとか美しくないと感じる感覚や美意識がすっかり麻痺してしまっているからなのかも知れません。
7月3日におひつじ座から数えて「世間体」を意味する10番目のやぎ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、「悪口にたいして悪口でこたえる」くらいの潔さと美意識とを発揮していきたいものです。
搾取の囲いを突き破るために
たとえば温又柔の長編小説『魯肉飯のさえずり』には、逃げるように結婚を選んだものの、夫に一つ一つ大切なものをふみにじられていった主人公が次のようなやり取りを繰り広げるシーンが出てきます。
「わたし、聖司さんにばっかり甘えてたくないの。もちろん聖司さん以上に稼ぐのは不可能だけど、わたしにもできることがきっとあると信じたい」と提案する主人公の桃嘉に対して、夫の聖司は「お金のことは気にするなよ」「奥さんと子どものために稼ぐのは、男にとってあたりまえのことなんだからさ。それに俺は、桃嘉に甘えられるのが嬉しいんだよ」と答えるのです。
しかし、それに対して「桃嘉は軽い絶望をおぼえる」。なぜなら、彼女が言いたかったことが夫の聖司にはまるで伝わっていないから。彼女は夫に自分へのケアを愁訴し、それでも彼の言動にそれが欠如していることに傷ついている訳ですが、それでもそういう夫の主観が形作る世界になびいてしまうのではなく、彼女なりにこうした脅威に抵抗することができています。つまり、彼女はこれまで抜け出すことさえ「不可能」だとどこかで思い込んできた囲いから、まさに一歩踏み出そうとしている訳です。
今週のおひつじ座もまた、みずからが実現したい世界を象徴する原理を、何よりもまず自分自身が体現していけるかどうかが問われていくことでしょう。
おひつじ座の今週のキーワード
必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていく