おひつじ座
環の再建という一大事業
命のサイクル、その継承
今週のおひつじ座は、『朝顔の二葉より又はじまりし』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、不意に「はじまり」の実感が深まっていくような星回り。
朝顔は種をこぼして終わり、枯れゆくが、そのこぼれた種からまた芽が出てきては、みずみずしい二葉(ふたば)を開く。今年もまたこの「二葉」から、命のサイクルが始まったのだという実感をストレートに詠みあげた一句。
眼前の小さな朝顔の二葉を見つめながらも、作者の脳裏には年単位での命のサイクルや、さらには人生まだまだここからだという思い、それとは裏腹の普遍的な命の継承への思いなどがあったのではないでしょうか。
この時作者はじつに79歳。命をめぐる複雑な思いの交錯やもつれ、思いもよらぬ結びつき、人に言えぬ失敗や悲しみなどをこれまで嫌というほど経験してきたからこそ、「すべてはこの二葉から始まるのだ」という深い実感が得られたはず。
5月20日におひつじ座から数えて「腑に落ちること」を意味する2番目のおうし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、一個人のプライドなどよりもずっと力強く、普遍的なものへとグッと根を下ろしていくような感覚を大事にしていくべし。
エネルギーの健全なる循環
鎌倉時代の説話集である『宇治拾遺物語』に収録されている「清徳」という民間の聖(ひじり)にまつわる不思議な話があります。
この聖は広大な畑に生えたネギというネギを、持ち主の許しを得るや、あっという間にすべて食べてしまったのだそうですが、いわゆる“見える人”が見ると、うしろに「餓鬼、畜生、虎、狼、犬、烏(からす)、数万の鳥獣」の霊をぞろぞろと従えて、彼らに代わってネギを食べていたのだそう。宗教学者の中沢新一はこのお話について取り上げつつ、次のように述べています。
聖たちは全国を這うようにして歩いた。そして、辻々や峠や谷や廃屋や路傍の陰などに、これらの霊たちを見つけ出しては、共同体のおこなう供儀の儀式などよりも、ずっと普遍性を持った仏教の慈悲の力がつくりだす、より広大な贈与の環の中に導き入れてやっと救い出す、という事業にいそしんでいたのである。共同体が見捨てた餓鬼や精霊が、それによって、もういちど宇宙的なエネルギーの循環の中に、自分の居場所を見つけ出せるようになった。(…)聖の活動を通して、「餓鬼の蘇生」が可能になった。この時代を「説話の時代」と呼ぶならば、それはまったくこうした聖たちによる、失われた贈与の環を再建するという、一大事業によるものなのであった。(『日本文学の大地』)
おそらく、清徳という聖には、自身が背負った成仏できずにいる餓鬼や聖霊にとって、ネギが供物の代わりとなることや、彼らが「広大な贈与の環」のなかへと入っていくきっかけとなる「二葉」となることが見えていたのかも知れません。
今週のおひつじ座もまた、「餓鬼や畜生」を単に白眼視するのではなく、どうしたら共に「失われた贈与の環」へと還っていけるかということを考えてみるといいでしょう。
おひつじ座の今週のキーワード
先見の明