おひつじ座
流動していく
世を狭くしないために
今週のおひつじ座は、「世間師」という言葉のごとし。あるいは、からだでものを知ろうとすることへのブロックを解除していこうとするような星回り。
宮本常一の『忘れられた日本人』(1960)に「世間師」という言葉が出てきます。辞書で調べると、「世慣れて悪がしこい人」とあって、ほとんど山師と同じような意味が出てくるのですが、どうも宮本の使っている「世間師」の意味合いはそれとはまったく異なっているのです。例えば、そのまま「世間師」と題された章の冒頭には次のようにあります。
日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。旧藩時代の後期にはもうそういう傾向がつよく出ていたようであるが、明治に入ってさらにはなはだしくなったのではなかろうか。村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片づけている。
宮本はこうした「世間師」に共通した性質として「いずれも大へん臍まがりで、頑固で、しかもどこかぬけた所のある連中であった」と書いていますが、一方で「この連中は戦争にいくのが面白くてたまらなかった。とにかく皆世間師で、無鉄砲なところがあり、何か事のおこるのをのぞんでいたのである。そこで戦争がはじまると実によく働いた」とも書いており、こうした大らかな気風と行動面での強烈さの結合は、現代の日本人に最も欠けている要素であるとさえ感じます。つまり、頭では世間を知ろうとするのに、からだは閉じていて怖がりなのとは逆で、世間師というのは、からだは物知りなのに頭はぬけているんですね。
12日におひつじ座から数えて「共同体外の付き合い」を意味する11番目のみずがめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そんな「世間師」のひとりとなるべく、頭ではなくからだで直接体験してきた内容を振り返ってみるといいかも知れません。
暗渠のふたを開けてみよう
昔の江戸や大阪の街なんかには縦横無尽に水路が走っていたものですが、明治時代以降、日本はいろいろな意味でそうした捉えどころのない流動的なものに蓋をし、暗渠(あんきょ)にして埋め立ててきました。
時おり柵をこえて暗渠を冒険したり肝試しに繰り出す若者などはいるかも知れませんが、ふつうに生きて歩いている限りまず足を踏み入れることはないでしょう。
ただ、そうして平地的に生きていると、どうしても記号やお金などの近代的なシステムで動いているものを、自分のなかに固定させることが生きていくということになりがちなのですが、近代化以前の江戸に生きていた作者は、おそらく近代人にとっては閉ざされていた無意識の回路から流れ出てきたものを、それこそ体感を通して、もっと直接的に感じたのではないでしょうか。
今週のおひつじ座もまた、普段なら蓋(ふた)をしている潜在的な現実のレイヤーで何かが揺れ動いていくことに気が付いていくことができるはず。
おひつじ座の今週のキーワード
からだは物知りなのに頭はぬけている