おひつじ座
自然をまねる
脱兎のごとく
今週のおひつじ座は、『焼売が真横にすべる春の山』(宮本佳世乃)という句のごとし。あるいは、「消費」や「経済合理性」の“外”へと横っ跳びをかましていくような星回り。
暖かな日差しをあびて草木は芽吹き、鳥獣は恋に恋する乙女らのように賑やかになるのが「春の山」。そんな待望の春の山野に、ふと思い立って野遊びにやってきたのでしょう。
一通り歩きまわったところで、ひと休みできる場所で、もってきたタッパーのふたを開けると、中身の「焼売」が寄ってしまっていた。それを「真横にすべる」と表現してみせたところがなんとも面白い一句。
単にそれだけ春の野山で思いきりはしゃぎ倒して、荷物を振り回してしまっただけとも取れますが、「真横にすべる」という表現の躍動感は、さながら冬眠から醒めた兎か何かが、天敵を察知して横っ跳びをきめたかのようでもあります。
人の手に支配され、どこまでも経済合理性がついて回る領域では、どこまでも消費され、欲望される対象としての“肉のかたまり”に過ぎなかった「焼売」さえも、春の野山では生命を得ていきいきとするだけでなく、脱兎のごとく動き出す。いわんや人間をや、というのが掲句のオチなのだとも言えます。
その意味で、27日におひつじ座から数えて「遊び」を意味する3番目のふたご座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、なんのためでもない、気の向くまま、体の向かうままに動いていく時間や選択肢を、ここらでグッと増やしてみるといいでしょう。
指先でドゥー・サムシングしていく
自然を扱うとき、「エコ」とか「環境」などと“概念”で言うようになったのは一体いつの頃からなのでしょうか。少なくとも、レオナルド・ダ・ヴィンチやパウル・クレー、狩野派の絵師たちであれば、同じことを精緻な観察とそれを実現するだけの“技術”=手技でもって目の前に具体的に示してみせたはず。
つまり、近代人は「自然」と言うと、「ネイチャー」だとか「母なるもの」だとか、そこに何かしらの“本質”があるものとすっかり思い込んでしまう訳ですが、自然を扱うだけの技術を持っていた人たちからすれば、自然とは例えばフラクタル図形のような破片の集積であり、デジタルの産物だった訳です(デジタルの語源は「指」を意味するラテン語)。
流動している織物のような自然を同じく異質の織物としての感覚器で触れた境界面で作り出される造形のひとつひとつこそが自然であって、それは「自然」という翻訳語が明治期に入ってくる前は山川草木という固体を言い表していたこととも繋がっているのでしょう。
今週のおひつじ座もまた、“指”や“手”から離れたところで何かを語ろうとするのではなく、あくまでそれを運用する“技術”の中で語ったり、遊んだりしていくべし。
おひつじ座の今週のキーワード
すっかり分離してしまっていた頭を手元とを繋げていくこと