おひつじ座
安心してボケていこう
懇親のボケ
今週のおひつじ座は、『飲みに行くとは会ひに行くこと大寒波』(北大路翼)という句のごとし。あるいは、ボケとしての本領をすすんで発揮していくような星回り。
大げさな、と思わず吹き出してしまいそうになる一句。その悲壮な自己演出はさながら『八甲田山』の死の行軍のようであり、あるいは、作者の頭の中ではデデンデンデデンという『ターミネーター』のメロディでも流れていたかも知れない。
というより、そういうリアルタイムのツッコミを受けるため、ツイッターにみずから書き込んだのだろう。しかもなんとなく、あまりの寒さにちょっと後悔したりしている姿も思い浮かんでくる。
もちろん、これを詠んだのが八甲田山で主演をはった高倉健のような“マジ”の人であったならそこまでは言わない。けれど、令和の時代においてはもはやそういうマジの人のマジの演技は成立しなくなり、代わりに軽いノリや口実となるネタこそが主役となって、観客側も「ウソから出たマコト」となる過程を楽しんでいくのがコードとなったからには、こういう文章もそこまで野暮ということにはなるまい。少なくとも、マジの人を中心としたツッコミ皆無の飲み会は地獄である。
1月22日におひつじ座から数えて「社交」を意味する11番目のみずがめ座で新月を迎えるべく月を細めていく今週のあなたもまた、ちゃんとつっこんでくれる人たちに渾身のボケを提供していくべし。
自然と空気が漏れだすような
それにしても、ボケとは一体何なのでしょうか。ただの過失やうっかりという観点を外してみるとき、そこに何かあるのか。例えば、詩人の最果タヒがイラスト詩集『空が分裂する』のあとがきで、自身が詩を「なんとなく、書き続けてきた」経緯について、次のように振り返っていた記述があります。
創作行為を「自己顕示欲の発露する先」だという人もいるけれど、そうした溢れ出すエネルギーを積極的にぶつける場所というよりは、風船みたいに膨らんだ「自我」に、小さな穴が偶然開いて、そこから自然と空気が漏れだすような、そんな消極的で、自然な、本能的な行為だったと思う。誰かに見られること、褒められること、けなされること、それらはまったく二の次で、ただ「作る」ということが、当たり前に発生していた。
「自然と空気が漏れだすような」というところなどは、まさにボケの真髄に触れているような気がしてなりません。すなわち、みんなとどうしても同じでいられない自分の存在を、平凡な装いで隠すのでも、過剰な賞賛で塗りたくるのでもなく。ただそういうものとして受け止め、息をするように自然に打ち出していく。
今週のおひつじ座もまた、自身のボケをみずから肯定していくタイミングにきているのだと言えるかも知れません。
おひつじ座の今週のキーワード
行き着く果てにあるものとしての微笑