おひつじ座
石頭を叩き割る
徳の再発見
今週のおひつじ座は、「百科事典以外の悪徳の定義」のごとし。あるいは、意識の境界線をさりげなく飛び越えていこうとするような星回り。
寺山修司は50年前にはじめて刊行された『家出のすすめ』の「百科事典以外の悪徳の定義」と題した文章において、こんにちの先進国社会において悪徳とされている行為を幾つも列挙し、この中から真に悪徳と思われるものを選べという試験問題が出されたなら、それはなかなか難問だと述べた上で、次のように書いていました。
サドのいわゆる「自然そのものがあたえたものを信ずるべきだ」という考えが、「欲望、情欲によってつらぬかれた」汎神論としてあるのは、きわめて健康的なことだ、とわたしは考えます。そして、悪というのはキリスト的友愛の絆によって規定されるのではなくて、自然そのもの要求に反することなのではないか、と考えるのです。
こうした考え方からすれば、我慢や禁欲こそが悪徳であり、幸福そのものではない何かを私たちに集団的に信じ込ませることで、ある種の社会的秩序を成立させている訳ですが、逆に言えば、最低でも週に1度ないし月に1度くらいは、幸福そのものを求めるために、なにか他の方法(芸術、遊び、ナンセンスetc)で想像しうる限りの悪事について話し合ったり実践したりする機会をもつくらいで、ちょうどいいのではないでしょうか。
16日におひつじ座から数えて「落とし穴」を意味する8番目のさそり座で満月を迎えていくあなたもまた、一般的には悪徳とされているものの中にむしろ1つの徳を見出していくべし。
小説における暴力表現の必然
例えば、村上春樹は8作目の長編小説『ねじまき鳥クロニクル』で、それまではなかった"バットで頭をたたき割る”というかなり暴力な行為をはじめて登場人物に取り入れました。
英訳を担当しているジェイ・ルービンも村上に「どうしてあんなにひどい暴力が出てくるのか」と問い質したそうですが、村上によればこれはかなり意図的なものだったようです。
というのも日本の場合、太平洋戦争のあと、かなり急進的に平和ということが推し進められ、また和というものに異様にこだわりすぎてきたために、暴力に関してかなり抑圧的になってしまい、暴力=悪ということが固定的に捉えられるようになってしまいました。
けれど「平和の時代」などと言い出す前は、日本も滅茶苦茶やっていましたし、じゃあ社会も滅茶苦茶だったかと言うとそうではない。そこにはある程度のルールが成立していたのですが、現代では暴力に関するルールということさえも感覚的に分からなくなってしまったことで、エネルギーの発散の仕方も下手くそになってしまったのではないでしょうか。
暴力の本質にあるそうしたエネルギー自体は、狩猟であれ採集であれ農耕であれ、生き延びるためには必要であり、そういうものは本来誰しもが持っている訳で、それを完全に失ってしまえば単なる”いいカモ”なんです。
その意味で今週のおひつじ座もまた、暴力をただ否定するのでも抑圧するのでもなく、自分なりの人生物語のなかで、その発露を模索していくことがテーマとなっていきそうです。
おひつじ座の今週のキーワード
身体はわがまま、頭はがんこ