おひつじ座
心の支えの建て直し
自分に寄り添ってくれる自然
今週のおひつじ座は、かつての「お天道さんが見てる」という教えのごとし。あるいは、自分なりの宗教を改めて見つけたり、つくったりしていくような星回り。
日本人はキリスト教のように明確な協会や聖書といった存在をもった文化圏ではない代わりに、日常生活と深く結びついたものを通して心を教え、宗教ということをやってきた訳ですが、たとえば「もったいない」という教えのような、ものがないことを前提とした躾や道徳はこれだけ豊かになってしまった今、もはや成立しなくなってしまいました。
それから、「お天道さんが見てる」という、ほかの誰も見ていなくても、太陽(神や仏)はきちんと見ているのだという教えも、まわりがみんな農家だったり、お日様のもとでみな汗水流して働くという実感がまだ生きていた頃には通用していたのが、今やこの教えの「お天道さん」は悪い意味で「インターネット」に代わってしまったように思います。
西洋では近代化・産業化によって「神は死んだ」とニーチェが言いましたが、日本社会でそれを言い直せば「自然は死んだ」という話になるはず。しかし、一方でそのほとんど見失うほどに遠ざかった自然を取り戻そうと、私たちはもう長いこともがき続けてきたようにも感じます。
4月9日におひつじ座から数えて「心の支え」を意味する4番目のかに座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、近所の猫でも1本の桜の樹でもいい、かつての「お天道さんが見てる」という教えの自分なりにしっくりくる形を、再発見していきたいところです。
ファーブルの太陽体験
ファーブルの『昆虫記』と言えば、今では知らない人はいないでしょう。昆虫の生態をつぶさに観察した文庫版にして4000ページを超すこの著作は、まごうことなき人類の大切なレガシーと言えますが、その生涯は決して順風満帆ではなく、進化論を認めず、正規の学者へのコースをたどらなかった彼の業績は、当時ほとんど評価されませんでした。
そんな自身の原点について、「最初の知的な微光が目覚めたのは、ある日、幼い私が両手を後ろにし、太陽の方を向いて考えていた」ときであったと述べ、こう続けています。
「私は灯火の明るさに惹きつけられる蛾であった。私が輝く栄光を口で見ているのか、あるいは眼で見ているのか」と。そして目と口を交互に閉じた後で、「私は私が眼で太陽を見るということを的確に知ったのだ」と。
一見バカげた問いにも見えますが、こうした根本的な問いから出発し、その気になればいつでも初志に立ち返ることができたことが彼の最大の強みであり、また大きな心の支えにもなっていたのではないでしょうか。
今週のおひつじ座もまた、彼のように初志に立ち返り、かつて自分に差し込み、今もまた自分を照らしてくれている精神の灯火に自然と惹きつけられていくことになるでしょう。
おひつじ座の今週のキーワード
精神に静けさをもたらしてくれたものを思い出す