おひつじ座
お前はもうにじみ出ている
身の程をわきまえる
今週のおひつじ座は、「柿売つて何買ふ尼の身そら哉」(村上鬼城)という句のごとし。あるいは、みずからの境遇の根底にあるものをしみじみ感じていくような星回り。
尼寺の軒のはしで尼が柿を商売人に売っている。尼はそうして得たわずかばかりのお金でいったい何を買おうというのか。なにぶん墨染の衣をまとって、粗末なものを食べ、貧しい田舎の尼寺に引っ込んでしまっている身ですから、多少のお金を得たからといって何をどう楽しもうということもできないではないかと。
ただ「身そら」とありますから、作者はそれをバカにしたり、なじったりしている訳では決してなくて、そういう境遇にいる世捨て人としてのひとりの女性に何とも言えない憐れみを感じたのでしょう。
作者は耳の聞こえない障害者であり、人並みに働くことも一苦労な上に、家族も多く長らく困窮した生活を送ったためか、貧しいもの、弱きもの、老いや病いを抱えたものに対する熱情はひとかなたならぬものがありました。そういう作者でしたから、この尼を詠じた句でもまた、尼の境遇に自身のそれを少なからず重ねていたはず。
19日におひつじ座から数えて「資産」を意味する2番目のおうし座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、自分の「身そら」からにじみ出す個性や人間性がどんなものであるかという実感を深めていくことになりそうです。
「足摺り」という所作
古典的な能や現代の暗黒舞踏では、跳ぶことが禁じられ、その代わりに地に括りつけられた者の所作としての「足摺り」に大きな意味が与えられています。
バレエやタップ・ダンスが、軽やかに人間的な湿り気や拘泥からみずからを遠ざけようとするのに対して、「足摺り」は土着的であり、低く重くみずからがその上に立つ大地へと下降し、そこに立て籠もっていくのです。
かといって、それは大地や床を卑しめたり、蔑んだり、憎悪したりするのではなく、リアリティーのもっとも内奥におのれを浸透させ、そこでじりじりとおのれをリアリティーに擦り付け、これを外してしまえばおのれの立場そのものが虚偽になると思い詰め、受け入れざるを得ない事態のなかでただただみずからを苛んでいく。
それは自分がそもそも「腐植土(ラテン語のhumus、humanity=人間性の語源)」であることを思い出していくための技芸でもあり、先の「身そら」という言葉に通じる悔いや恥といった情念もまた、そこうしたところから噴き上がってくるのではないでしょうか。
同様に、今週のおひつじ座もまた、浮こうとしても浮きえない自らの性(さが)を改めて自覚していくべし。
おひつじ座の今週のキーワード
身の内の土着性を知ること