おひつじ座
鮮烈な赤を!
禁止の侵犯
今週のおひつじ座の星回りは、汚泥に咲く蓮華のごとし。あるいは、自分なりの「禁止の侵犯」を探っていくこと。
かつて寺山修司は、泥の中から咲いてくる蓮の花の美しさについて言及したあとで、次のように書きました。
「だが、その蓮の花の鮮やかな赤色を、叛逆者の血のしぶきと見るか、生身の喩えと見るか、エロチシズムの煩悩と見るかは、私たちの自由というものでなければならない。」(『さかさま世界史』)
これは先日おひつじ座入りした火星に追いつくようにして、12日に月が重なっていく今のおひつじ座の人たちが置かれた状況をそのまま表しているように思えます。
すなわち、新たな力を育むための養分と長年の疲労や鬱屈の堆積としての汚れとが同等に入り混じったカオスな状況を切り裂いて、おのれの存在意義を証明してみせんと新たな場や方法を模索していくこと。そんな今のあなたは、さながら鮮やかに“赤”く咲こうとしている蓮華の花そのものと言えるのではないでしょうか。
ただ、美というものは、本来何かを欠いたものであり、完璧さや合理主義への固執からは美やドラマどころか、ひとつのユーモアさえも生まれてこないのだということも思い出していかねばなりません。
人は何かを失うことで初めて、その代わりに新たな自分自身となるための可能性(自由)を手に入れることができる。誰がなんと言おうと、それを決めるのはあなた自身なんです。
破格の文体
フランスの思想家バタイユは、人間は他の動物と違い、禁止を侵犯すること自体が欲望の対象となりえる動物であり、それこそがエロティシズムの条件だと考えました。つまり、「やっちゃいけないとされてきたことをする」から花は赤く鮮やかに咲くのだと。
例えば、20世紀のフランスの作家セリーヌは、パリの貧民街で開業医をしている主人公医師バルダミュが、全世界の欺瞞と愚劣に徹底的に呪詛と悪罵をはき続ける独白スタイルの小説『夜の果てへの旅』を、それまでもっぱら文語体で書かれてきた小説に、口語体と俗語を持ち込んで賛否両論にわかれたものの、それゆえに一世を風靡しました。
いわば、文学に口語を侵入させたのです。それは新たな文体の発明であり、話自体もとんでもなく面白いものでしたが、やはり語り口に少なからず引き揚げられていたのではないでしょうか。そして、彼が自身の小説について「文学の本ではない、人生の本だ」と言っていたことも忘れずに記しておきたいと思います。
今週のキーワード
自由という熱狂