おひつじ座
鉄の玉からしなやかな息吹へ
自己同一性の柔らかなゆらぎ
今週のおひつじ座は、虚と実の入り混じり。あるいは、「わたし」と「ぼく」と「彼」とが同時に自分であると気付いていくことで、固定された自己同一性から解き放たれていくような星回り。
「わたし」の人生において、これまで他人事のように捉えていたモノや人が、あるときに他ならぬ「わたし」であり、「わたし」の虚像であると気付いてしまう、といったことがときどき起こります。
これはいわゆる多重人格とか、解離性同一性障害などと呼ばれているものとも近いですが、どちらかと言えば「分身」と呼ばれる現象に近いかもしれません。
精神医学によれば、分身とは「自分の身体を外界に第二の身体として幻覚化する現象」のことで、あるいはまた、自分の姿を外界に見る自己幻視像とも言われています。
また、一時的な障害であるとの見方もありますが、それは必ずしも「病気」などのネガティブな異常事態とばかりは限りないでしょう。
自分以上に自分らしい自分というのは、今やそこら中に転がっている。
それらが、本物の自分の周縁を浮遊するように取り巻き、そよ風のように吹き渡っては、互いに入れ替わり可能であるような、そんなしなやかで非固定的な自己同一性の感覚を、今週は抱いていくことができるかもしれません。
宗教的修行における分身体験
東大寺長老の森本公誠師は、宗教的な修行の最中に自分の姿(分身)を見たのだといいます(『私の履歴書』)。
その男は黒い僧衣を身に着け、目を閉じてじっと座っていたが、自分の顔であった。その姿が次第に小さくなり始めると背景が浮かび上がってきた。自分がお寺の食堂に坐っていた。
次第にその自分も食堂も小さくなり、二月堂が見え三月堂が見え若草山が見え春日山が見え、それにつれて自分の姿は米粒のように小さくなっていった。
おのれの存在とはそんな小さなものだ、頭のどこかがおかしくなったのかと思いながらも、この風景を凝視しているおのれは誰だと気づいた途端、風景はぱっと消えた、と。
ここで森本は、「黒い僧衣の男」だったり「食堂に坐っている自分」だったり「風景を凝視しているおのれ」であったりして、自分をどこかに固定させず、それらのあいだを吹き抜けつつ、どの自分も否定することなく受け入れることに成功しています。
今週は、自己同一性を強固に有する鉄の玉のようなものとしてではなく、ゆらめきや、風や、流れや息吹きのようなものとして自分自身を感じていくといいでしょう。
今週のキーワード
視点を浮遊させていく