
みずがめ座
やがて虫は月光を呼び込む
内省の呼吸のその先を
今週のみずがめ座は、「夜竊(ひそか)に虫は月下の栗を穿つ」(松尾芭蕉)という句のごとし。あるいは、繰り返されてきた自問自答が微細な道を開いていくような星回り。
この句の「虫」は毬(いが)に包まれた栗の実の中に産み付けられたもので、その内側から実や殻に穴をあけようとしている存在。それも「夜ひそかに」とありますから、昼の論理や社会的自己が沈黙した後の、こころの最深部での出来事でしょう。
だとすれば、「虫」は意識の奥で絶えずささやき続ける“自己観察者”そのものであり、この句は普段は無視されている小さな声が、夜の静寂の中でふいに浮かび上がる―そんな心理的瞬間の微細な変容を象徴しているのだとも解釈できそうです。
「穿(うが)つ」という表現は、単に穴をあけるというだけでなく、物事を掘り下げる、事の本質にふれる、(神に)おうかがいを立てる、といった意味もあり、ここでは特に、硬直していたセルフイメージに風穴をあけていくような意味合いで使われている。
音の面から見ても、この句は「ひそかに」「むしは」「うがつ」と、柔らかく息の擦れるような音で構成されていて、まるで内省の呼吸そのもの。作者は「これでよいのか」「なぜ」「本当は」といった内なる問いかけを、虫の穿つ音として聴き取っており、その音は夜の沈黙を破る代わりに、沈黙と共鳴するように、つまり思索と静寂が同居するかたちで静かに響いているのだと。
そうして、意識にのぼるかのぼらないかのギリギリのところで起きている変化の予兆が、月の光という柔らかい間接光の下で、ほの白く照らし出されていくのです。
10月30日に自分自身の星座であるみずがめ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、やがて光と風の通り道となるであろう内なる小さな裂け目を生じさせていくことになるでしょう。
自己啓発から哲学へ
現代社会はいま自己啓発の大量消費へと向かっていますが、それは裏を返せば、現代人が「自分には何もない」という虚しさを深く抱えていることの証左でしょう。
より高い能力、より大きな名声へと人々を駆り立てていく自己啓発の言葉は、ほぼ例外なく、より深く自分自身を探っていくことを大いに促します。しかし、社会の流動性がこれだけ高まり、ますます生き残り競争が激化している中でそうしたダイブを促せば、その先に待っているのは自分に確かな価値や強みを見出す瞬間というより、むしろいかに自分が矮小でつまらない人間であるかということへの痛感だった、というオチの方が圧倒的に説得力があるはず。
そもそも自己啓発は、それを構築するロジックを「信じる」ことを人に要請しますが、「自分には何もない」ことにうすうす気付いている人ほど、まともに考えることを放棄して信じ込もうとするのではないでしょうか。その方が、自らの価値や他者との繋がりを実感していくのに「役立つ」からです。
こうした不安と虚しさは、働き方がより曖昧になり、生成AIが本格的に人間から仕事を奪っていくようになるごく近い将来へ向け、ますます深く大きなものになっていきます。そして、そこから抜け出していくための鍵は、結局「自分こそが正しい」という思い込みを否定し、自分の外側に広がる真理(月下の光景)に目を開いて、哲学していくことにあるのではないでしょうか。
その意味で、先の「月下で栗を穿つ虫」とは、哲学することのイメージ像にほかならず、今週のみずがめ座もまた、どれだけそれを実践できるかどうかがテーマとなっていくはず。
今週のキーワード
夜の沈黙と共鳴する方へと掘り進めること







