
みずがめ座
断絶から連続へ

受け入れざるを得ないものの到来
今週のみずがめ座は、「夢の如くがゝんぼ来たり膝がしら」(岡本松濱)という句のごとし。あるいは、「夢」と「身体」との接点がふいに浮かびあがってくるような星回り。
「膝がしら」という身体部位の象徴性と、「ががんぼ」という儚げな昆虫とが不思議な取り合わせとなって他にない情緒を醸し出している一句。おそらく、庭に面した縁側や公園のベンチなどに腰かけているときに、露出した膝がしらに直接ががんぼが停まっていることに気付いたのでしょう。
礼拝や懺悔を行う際の動きを「膝を折る」などと表現するように、「膝」は祈りや屈従、自己の内面に潜る沈思の姿勢とも関係が深い身体部位ですが、「膝がしら」という語の選択は、単に「膝」ではなく、骨の突出を意識させることで、より具体的で感覚的な身体性を立ち上がらせます。端的に言えば、「膝がしら」というのは無意識のうちにさらけ出された静かな心の一点なのです。
この句ではそこに「ががんぼ」がやってくる。ひと肌に触れるような距離感が立ち現れるのです。長い足と大きな翅をもちながら、どこか頼りない飛び方をするががんぼは、人を刺すことも毒もなく、静かに宙を漂うだけですぐに死んでしまう脆弱な生き物で、しばしば「夢」や「影」、「死者の霊」などと象徴的に重ねられる存在でもあります。
つまり、ががんぼの膝がしらへの飛来とは、実体のない何かがふと触れてくる感覚であり、何か名付けようのない記憶や感情がふいに訪れるような瞬間を描写した情景でもあるのではないでしょうか。
6月11日に「幸運」をもたらす木星がみずがめ座から数えて「メンテナンス」を意味する6番目のかに座に移っていく今週のあなたもまた、生きていることが持つ夢のような脆さと、「夢のようなもの」が生のど真ん中に触れてくる、その奇跡的な交差の一瞬を迎えて入れていくことになるでしょう。
日本における死想の系譜
「メメント・モリ(死を想え)」という言葉を持ち出さずとも、日本人は欧米のキリスト教信徒らとは異なり、伝統的に死者を忘れない精神文化を培ってきました。
たとえば、日本では昔の人はみな「神(仏さん)」になるのであり、生きている者たちのあいだだけでなく死者たちとも、肉体や魂を超えた精神的連続性を維持してきたのです。そこで重要となってくるのは、故人が忘れられることなく祭られ続けることであり、先人とその後に続く者の連続性を信じることこそが死者の存在証明に他なりませんでした。
目には見えず、分かりやすい形では存在しなくても、そこにあたかも存在しているかのように私たちが死者を扱い、振る舞うことで、日本人は民族史上の死後存続、すなわち日本人という有機的共同体の一細胞としての実感を得てきたわけです。
ただ、そうした感受性の在り方も、身体のサイボーグ化や精神のデジタル化がすすみ、生と死の境界線がますます曖昧になってきている現代社会においては、次第にうしなわれてきてしまっているように思います。その意味で今週のみずがめ座にとって、自身の隠された連続性を改めて感じ直し、取り戻していくていくことがテーマとなっていくでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
死んでも死なないものがある





