
みずがめ座
味方とは何か、敵とは誰か

鋳型崩し
今週のみずがめ座は、カミングアウトするズーたちのごとし。あるいは、セクシュアリティの自由とともに性について語る自由を求めていこうとするような星回り。
私たちは知らず知らずのうちに親や周囲から押しつけられた「社会規範」を内面化していくものですが、その中で性には「正しい」あり方というものがあるという考えを抱くようになり、少なくない人たちがそうした自身の考えに苦しんでいるはず。
それはセクシュアル・マイノリティと呼ばれる人たちだけではありません。健全で何の問題もないように見える異性愛者であっても、その状況は同じであるはずなのですが、傍から見れば“普通”であることがかえって違和感を表明するのを難しくしているのでしょう。逆に、ある種の規範の「正しさ」に疑念を呈したり、かすかな違和感を口にしたりするのは、いつだって“普通”から逸脱していることがあきらかな人たちであり、それは最も苦しみが深く、かつ真実を口にすることがはばかられる人たちであるのは、何とも皮肉なことと言えます。
たとえば、現代において、実際に犬や馬を性的なパートナーとする「ズー」と呼ばれる人たちがいます。彼らを取材した濱野ちひろのルポである『聖なるズー』では、「ズーとは自分とは異なる存在たちと対等であるために日々を費やす人びとだ」と定義づけた上で、彼らのあり方に対する率直な印象を次のように述べています。
ズーたちは詩的な感覚をもっているのかもしれないと、私は思う。動物たちからの、言葉ではない呼びかけに応じながら、感覚を研ぎ澄ます。そして、自分との間だけに見つかるなにか特別なしるしを手掛かりに、彼らはパートナーとの関係を紡いでいく。
3月14日にみずがめ座から数えて「親密性」を意味する8番目のおとめ座で月食満月(大放出)を迎えていく今週のあなたもまた、誰かが語らなければ鋳型にはめられた性の輪郭は崩れていかないのだということを、改めて肝に銘じていきたいところです。
近代的枠組みを終わらせるということ
たとえば、茨木のり子の「敵について」という詩があり、それは次のように始まります。
私の敵はどこにいるの?
君の敵はそれです/君の敵はあれです/君の敵はまちがいなくこれです/ぼくら皆の敵はあなたの敵でもあるのです
ああその答のさわやかさ 明快さ
あなたはまだわからないのですか/あなたはまだ本当の生活者じゃない/あなたは見れども見えずの口ですよ
あるいはそうかもしれない敵は……
敵は昔のように鎧かぶとで一騎/おどり出てくるものじゃない
と、ずっと続いていって、さらに「なまけもの/なまけもの/なまけもの/君は生涯敵に会えない/君は生涯生きることがない//いいえ私は探しているの 私の敵を//敵は探すものじゃない/ひしひしとぼくらを取りかこんでいるもの//いいえ私は待っているの 私の敵を//敵は待つものじゃない/日々にぼくらを浸すもの」ときて、最後にやっと
いいえ邂逅の瞬間がある!/私の爪も歯も耳も手足も髪も逆だって/敵! と叫ぶことのできる/私の敵! と叫ぶことのできる/ひとつの出会いがきっとある
とくる。ここでやっと二項対立的な図式を脱け出して、感覚的に別の生き物になっている。つまり、もはや敵か味方かという近代人的な捉え方はなくなっていて、ただ共に進化していく水平的な関係を意識的に受け入れている状態がある訳です。
今週のみずがめ座もまた、「レッド・オーシャンで闘い続けなければならない」という近代的前提からどれだけ潔く降りていけるかということが少なからず問われていくでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
自分とは異なる存在たちと対等であるために日々を費やす





