みずがめ座
穏やかな情念
ささやかな欲を抱えて
今週のみずがめ座は、『柿売って何買ふ尼の身そらかな』(村上鬼城)という句のごとし。あるいは、素朴などうしようもなさに立ち返っていこうとするような星回り。
「身そら」は境遇とか身の上といった意味で、掲句の場合は「尼の身そら」そのものが、1つのなぞかけのようにこちらを招いているのだと言えます。
この尼僧は、尼寺の境内の柿の木に実っている柿をこっそり商売人に売っており、尼はそうして得た金で何を買っているのだろうか。
これは下世話な心情を刺激する週刊誌の見出しのようにも感じられる一方で、金を持つ楽しみというのは、現代では本人でもよく分からないままに膨張してしまうものだが、得てして身につけるものや口に入れるもの、耳目を喜ばすものなど、そういう直接的な分かりやすくささやかな要請と共にはじめて意味をなすものなのだと、しずかに諭してくれているようでもあります。
この尼も、頭をまるめて、墨染めの衣をまとって、粗末なものを食い、ひなびた住まいに落ち着いている身であるにも関わらず、だからこそなのか依然としてなのか、捨てがたいささやかな欲を抱えて生きているんじゃないか、と。
作者はここで尼をなじっているのではなく、むしろそういう身の上に甘んじているひとりの世捨て人に憐れみを感じているのと同時に、読者にそっと文脈を開きつつ尼の来し方行く末について思いを馳せているのではないでしょうか。
10月11日にみずがめ座から数えて「アジール」を意味する12番目のやぎ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、自身のことであれ他者のことであれ、ささやかな欲や執着をなじったり見下したりするのでなく、菩薩のごとく肯定し受け入れていくべし。
魔と間
人間というのは畢竟、愚かな存在であり、どんなに理知的な人であったとしても魔が差す時は差しますし、突発的にとんでもないことをしでかすことだってある訳です。そういう時は理性は働きませんし、取り繕うとすればするほどおかしなことになっていきます。
健全な人間とは、精神がいかなる病的な魂の動きによっても惑わされない人々のことと考えるとすれば、逆に心惑わされている人々のことを「不健全」と呼ぶ必要がある
こう述べたのは古代ローマのキケロでしたが、そもそも妄想であれ欲望であれ、いかなる情念も持ち主を苦しめるために存在し始めた訳ではなく、むしろ先の尼のように生き延びるためのよすがとして成立したはず。
謹厳で知られるストア派の哲学者たちもまた、無情念ではなく「メトリオパティア(穏やかな情念)」を彼らの理想としましたが、それを実現するには緊張に満ちた瞬間をやり過ごし、魔と十分に‟間”ができるまで待つ術を覚えなければなりません。
今週のみずがめ座もまた、そうした間が熟していく感覚を静かに感じ取っていくことがテーマとなりそうです。
今週のキーワード
世間との距離感の成熟