みずがめ座
時空を超えてせりあがってくるもの
魂の下降の旅へ
今週のみずがめ座は、イニシエーションとしての「物語」を作る作家のごとし。あるいは、失われた「魂の故郷」への通路をみずからの手で探っていこうとするような星回り。
スペインの哲学者フェルナンド・サバテールの文芸論『物語作家の技法―よみがえる子供時代―』では、『海底2万マイル』などのなつかしいタイトルを挙げ、「下降の旅」という章のなかで次のように書いています。
このような地理学上の倒錯行為は人に眩暈を覚えさせることにもなろう。にもかかわらず、われわれの足下に横たわるものは時代を問わずつねにわれわれの心を惹きつけてやまなかった。そこは死者の国である
確かに、海に囲まれ数多の川と寄り添いながら暮らしてきたわが国の人間が、いつからか陸の、すなわち生けるものの論理だけで生活を覆い尽くすようになってしまいました。しかし、自分たちの足場の下は決して固いコンクリートだけで構成されている訳でなく、根本的にはあやふやで、時には生者をすっかり呑み込んで、まったく異なる次元と繋がってしまうカオスが横たわっているのだということを、私たちは大人になってすっかり忘れてしまっているのではないでしょうか。
サバテールは、かつて哲学書をゆびさして「この本に筋はあるの?」とたずねた幼い弟に「あるもんか」と答えてしまったことへの深い反省から出発し、「自然科学の領域で発生」した客観的リアルの巧みな反映を目指す「小説」に反して、「感性の麻痺した大人として、土曜の午後に訪れるあの管理された現実逃避の感覚に包まれながら、霧深い魂の故郷へと降りていく」手段としての「物語」という言い方で、適確に位置づけています。
その意味で、6月6日にみずがめ座から数えて「童心」を意味する5番目のふたご座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、すっかり忘れていた、子どもの頃に読んだ物語の手触りをほんのちょっとでも思い出してみるといいでしょう。
語りえないものを語ること
たとえば、民俗学者の折口信夫はエッセイ『山越しの阿弥陀増の画因』の中で、山越しの阿弥陀仏を描いた数々の来迎図について語りながら、「私の物語なども、謂わば、一つの山越しの弥陀をめぐる小説、といってもよい作物なのである」と言います。
この「私の物語」とは、折口が生前唯一完成させることのできた小説『死者の書』のことで、中将姫という高貴な少女のはじめての恋と、若くして非業の死を遂げた皇子の生涯最後の恋とが時空をこえて出会い、切なくすれ違っていくラブロマンスです。そして、先のエッセイのなかで、この小説を書いたことについて、こう述べているのです。
そうすることが亦(また)、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養ともなるという様な気がしていたのである。
この「古い故人」が誰かは折口は自分の口からは明かしませんでしたが、その後には日本人の積み重ねてきた意識や象徴が重要なのであって、私個人のことではない、「私の心の上の重ね写真は、大した問題にするがものはない」のだと続けています。
同様に、今週のみずがめ座もまた、自分の過去や記憶の上を通り越して現れ出てくる何か重要なモチーフや象徴に感応していくことがあるかも知れません。
みずがめ座の今週のキーワード
本当に痛切なことは対象化しないと表現できない