みずがめ座
巫女らしくあるということ
他人との関わりの困難さにとどまる
今週のみずがめ座は、西田幾多郎の他者論に依っていくよう。あるいは、誰か何かとゼロ距離で相対しつつ、同時に絶対に同化しきれない深淵におののくことのできる“深み”を見出していこうとするような星回り。
SNSが浸透して以降、他者とのつながり方もすっかり変わってしまったというより、つながりから身体性がそっくり抜け落ちて、「よい/わるい」や「好き/嫌い」の二極分化やレッテル貼りが無意識のうちに進みやすくなってしまったように感じます。
ほんらい他者というのは社会を超えて“私”に迫るものであるとも言える訳ですが、と同時に、どうしてもその奥底までは捉えきれないという断絶に直面させてくれもします。こうした他者の問題について独自の思索を深めた哲学者の西田幾多郎は、日本の敗戦が濃厚となった1945年、最晩年に書かれた『場所的論理と宗教的世界観』という論考のなかで、西田は他人というより、どこか神仏との関わりをも想定して次のように述べていました。
我々の自己とは、何処までも自己矛盾的存在であるのである。自己自身について考える、即ち主語的なるとともに述語的、自己が自己の働きを知る、即ち時間的なるとともに空間的存在である。我々の自己は、かかる自己矛盾において自己存在を有(も)つのである。自己矛盾的なればなるほど、我々の自己は自己自身を自覚するのである。それは実にパラドックスである。ここに深い問題があるのである。我々の自己は自己否定において自己を有つということができる。主語的方向においても、述語的方向においても有と考えられない。絶対の無において自己自身を有つということができる。
つまり、自己はその根底に否定性を含んでおり、それゆえに自己否定を通してはじめて他者と関わることができるのだと。西田はそれを「逆対応」とも呼んでいましたが、それは若い頃に幼いわが子を亡くし、晩年には妻を亡くし、喪失と向き合い続けた西田が、その人生から懸命に紡ぎ出したきわめて切実な他者論の結晶だったのだと思います。
15日にみずがめ座から数えて「深い交わり」を意味する8番目のおとめ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした「自己否定において自己を有つ」という感覚を自分なりに深めてみるといいでしょう。
「己れに如(し)かざる者を友とすること無かれ」
この言葉は『論語』の一節として有名ですが、しばしば「自分に及ばない人を友にして付き合ってはいけない」と訳されます。しかし、「如かざる」を「及ばない」とか「劣った」という意味にとってしまうと、どうも功利主義的で孔子らしくありません。
白川静の『常用字解』で「如」を引くと、もともとこの漢字は祝詞を唱えている巫女の姿を表したもので、神意を問いそれに近づくことを「如く」と言うのだそうです。つまり、「如かざる」とは「(巫女が神に対してするように)一体化することのできない」という意味であり、「sympathy(自分の感情が主体の共感)」ではなく「empathy(相手の感情が主体の共感)」に近い言葉なんですね。
みずがめ座というのは、もっとも感情的な経験と遠いところにある星座ですが、逆に言えば、後者の意味での「共感」ということを、いかに自分らしさに取り込んでいくか(巫女らしくなるか)ということが、大きな課題となっているのだとも言えます。その意味で、今週のあなたは、そんな自分らしい姿勢や関係性へとシフトを経験していくことができるかも知れません。
みずがめ座の今週のキーワード
「自己否定において自己を有つ」