みずがめ座
言葉の奥にある感情
あえて分かりやすい言葉を使わない
今週のみずがめ座は、『熔岩つねに荒涼とある薄暑光』(冨川仁一郎)という句のごとし。あるいは、瞑目して初めて見える光景の解像度をグッとあげていこうとするような星回り。
「薄暑光(はくしょこう)」は初夏の日差しのこと。熔岩がいかにも荒涼として見えるのは、冷たく厳しい冬の季節ですが、掲句はどこを見渡しても緑したたる初夏にあっても、熔岩はかたくなに季節を拒んでいるのだ、といいます。
とはいえ、拒んでいる感はあっても、草一本はえてないという感じはしない。むしろ、この句からは、わずかばかりではあれど雑草のみどりが熔岩のすき間から所々に顔をのぞかせて光景が見えてくるはず。
そして、そのかすかなみどりゆえに、冬枯れた熔岩地帯よりもかえって荒涼とした印象を受ける。そこには「薄暑光」という言葉から連想される、真上から容赦なく照りつける過酷な夏の日なたのイメージもうまく働いているように思います。
こうした読む者の目に浮かばせる光景と、それを表す言葉の間接性(「みどり」という言葉をあえて使わない)との絶妙な塩梅こそが、俳句のいのちと言えるのかも知れません。
5月20日にみずがめ座から数えて「心の座」を意味する4番目のおうし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、あえて分かりやすい言葉を使わないことで心の実感を色鮮やかにしてみるといいでしょう。
「いぶせ」という言葉
日本では古来から歌人たちが気分が晴れないこと、気づまりなこと、なんとなく悲しいことを「いぶせ」(憂鬱)と名付けて歌に詠んだばかりか、源氏物語の桐壺帝の憂鬱を「なほいぶせさを限りなくのたはせつるを云々」とあらわしたりもしてきました。
ところが、20世紀の精神分析学者たちがそうした「特別な心情」を正当化できない悲嘆、すなわち「うつ(メランコリー)」と名づけ、一つの精神障害として分類ないし治療の対象として規定していく中で、次第にその異常性ばかりが強調されるようになりました。
では「いぶせ」もまた薬を投与して「治療」すればよかったのかと言えば、そういうものではないでしょう。もしそんなインスタントな処方箋で先に挙げた怪物の心情やその訴えをしりぞけてすますなら、古今東西の文学の大半は精神障害の単なる記録か、頭のおかしい者たちのでっちあげた妄想だったということになってしまいます。
つまり、精神分析は「深い悲しみ」を「精神疾患」にしてしまうことで、人々が正当に悲しみに浸る権利やその豊かさを奪ったのではないかという問題提起もできるはず。
今週のみずがめ座もまた、「病名」や「障がい」などの名の下でいつの間にか覆われてしまっていた深い感情を取り戻していけるかどうかが問われていくことになりそうです。
みずがめ座の今週のキーワード
盲点となっている感情