みずがめ座
過程としての日常
充実と仕事の距離
今週のみずがめ座は、『柿むいて今の青空あるばかり』(大木あまり)という句のごとし。あるいは、「たかが」と「されど」のはざまに仕事を置いていくような星回り。
「今の」今しか味わえぬ「青空」の尊さを感じているのだという。この句が秀逸なのは、そこに「柿をむいて」と添えた点でしょう。これがもし「柿食えば」としても、それなりの俳句にはなれど、柿を「食べた」ことへの満足感で「青空」の存在感はかき消えてしまったはず。「柿むけば」は柿の味わいを想起するずっと手前のプロセスであり、ただサリサリと何の思い入れもなくむいているだけ。
それは極めて事務的なプロセスであり、満足とはほど遠い、むしろ心を無にする行のようなものとも言える。でもだからこそ、ぽっかりと空いた心に「今の青空」が真に迫ってくる訳です。
考えてみれば、普段私たちが日々従事している仕事というのも、それ自体に満足できるものというより、むしろ満足の手前のプロセスであることにその本質があるのではないでしょうか。つまり、「たかが」仕事なんだけれど、そのプロセスがあるからこそ人生の充実度が俄然違ってくる。そういう意味では「されど」仕事でもあって、両者のはざまに満足がある。
25日にみずがめ座から数えて「職業的な自己」を意味する10番目のさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、サリサリと「柿むいて」いきましょう、くらいのテンションで過ごしてみるといいでしょう。
日常のその先を見つめて
肉体労働をしながら39歳で著作を発表し、「沖仲士(おきなかし)の哲学者」と呼ばれたエリック・ホッファーは、7歳で母が死に18際で父が死んでから天涯孤独の身でした。
彼は後年「本を書く人間が清掃人や本を印刷し製本する人よりもはるかに優れていると感じる必要がなくなる時、アメリカは知的かつ創造的で、余暇に重点をおいた社会に変容しうるでしょう」(インタビュー「学校としての社会に向けて」、1974)と述べていますが、これは現代の日本社会においても同じことが言えるかも知れません。
私たちは生きている。そして働いている。しかし一方で、自分自身の置かれた状況を嘆き、暇があれば愚痴を言い、社会や上司や他人のせいにして、悪者探しと不幸自慢で一生を終えようとしているように見えますが、そんなことにはもうコリゴリだというのが今のみずがめ座の心境なのではないでしょうか。
ホッファーがかつてそうであったように、例え日々の労働をやめるだけの余裕などとてもないのだとしても、いまここから自生的に立ち上がり、自分なりの知見を深め、知的かつ創造的に文化を創造していくことだってできるはずです。
読み、書き、調べ、考え、紙にまとめ、発表する。そうしたプロセスは、歩き、しゃがみ、持ち上げ、踏ん張り、こらえ、洗い、たたむといった日常の一連の動作と本来シームレスにつながっている。今週はそんなつもりで、自分の日常の先にある可能性について思い巡らせてみるといいでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』