みずがめ座
矛盾を抱えた結びつきを
異なる視点の共存
今週のみずがめ座は、「空腹のあたまに梅の咲いてゆく」(宮崎莉々香)という句のごとし。あるいは、絶妙なちぐはぐさ加減を楽しんでいこうとするような星回り。
おそらくは作者自身だろう空腹のひと、その頭上に梅が咲いている。いや、よく読むと、「咲いてゆく」のだという。つまり、道を歩いていて、お腹がすいたなあ、とこころから感じたそのとき、ふと見上げると、そんな心の声に呼応するかのように梅の花が1輪ずつ咲いていった、というわけだ。
そんなバカな、と思わずツッコミたくなるものの、だんだんそんなこともあるかも知れないと思えてくるから不思議である。というのは、この句は洛中洛外図屛風や源氏物語絵巻などに用いられた「吹抜屋台」という独特の手法と同じく、1つの固定した視点から知覚された景色を正確に描写しようとしたのではなく、複数の視点から感じられ眺められた自然を、十七音という1つの画面の上に並置していったものだと考えると合点がゆくのだ。
遠近法で描かれた西洋絵画のように正確ではなくても、身体の内側へと向けられた視点と俯瞰的視点という異なる視点が共存しつつ、それでいて「空腹のあたま」と「咲いてゆく夢」とのあいだにきちんと結びつきがうまれていて、掲句そのものがどこかちぐはぐでありながらも現に存在してしまっている人間のようでもある。
その意味で、18日にみずがめ座から数えて「結びつき」を意味する8番目のおとめ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、異なる視点をこれしかないという仕方で結びつけてみるべし。
ちぐはぐ、すなわち、抵抗
哲学者のキルケゴールは「自己とは、関係が、関係において、関係に関係することである」というテーゼを打ち出しましたが、宮沢賢治もまたよく知られた詩の一節である「わたくしといふ現象は、……因果交流電燈の、ひとつの青い照明です」において、因果という「関係」の総体から「私」が現れてくるという似たようなビジョンを描いてみせました。
賢治のいう「因果」は、どこか今日的な電脳メディアや仮想現実空間のいたるところに張り巡らされた電気回路をも想起させますが、「私」はそこに現れる「電燈」なのですから、「私」とはその電気回路における、フィラメントなどによって「抵抗」の高まった場所の1つであるということになります。
「私」はそうしたメディアの網の目のなかで、情報が「私」を素っ気なく通りすぎていくのを阻止しようとして抵抗を与え、それによって「私」は熱と光を発し、そういうものとしてのみ自分自身を認識し、また認知されていく訳です。
今週のみずがめ座もまた、そうした「抵抗」を試みていくことで、かえって広大で複雑な「関係」における「私」の繋がりや結びつきを感じていくことができるはず。
みずがめ座の今週のキーワード
抵抗とそれに伴う存在証明として発光