みずがめ座
生き残る力の根源にあるもの
素っ裸の人間の存在になること
今週のみずがめ座は、手足や東部さえも奪われてなお生きる意志と力を失わないディオニソスのごとし。あるいは、悩みらしい悩みより深い喜びに立ち返っていくような星回り。
ニーチェは『悲劇の誕生』において、ディオニソス的なものの本質を「力への意志」と呼びましたが、これはいわゆる権力を渇望することでは決してありません。ニーチェ自身はそれを1種の「むず痒さ」と見なしていました。
すなわち、身体的表面の動揺、私と私ならざるものとの境界地帯で起きる揺らぎであり、それこそが死への衝動を含み込んだ生きる意志としての「力への意志」の働きなのだと。
こうした働きの体現者としてのディオニソスは、どこかかつて強制労働を免れるために故意に凍傷による壊疽を選択したシベリアの日本人捕虜たちや、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所の生き残りを思い起させます。
そこでは剥奪はむしろ何も持ち合わせていない、本当に素っ裸の人間の存在をあらわにしていくための研磨材となる一方で、「あれは何だったのか」という問いに対して、いかなる既成のありきたりな解答も許さない、氷のように冷たい突き放しとして機能しているのではないでしょうか。
同様に、3月10日にみずがめ座から数えて「投機」を意味する5番目のふたご座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、存在することの意味や実感からできるだけ余計な社会的記号を剝ぎ取っていくことがテーマとなっていきそうです。
危機における生命の本能
疫病、災害、飢饉、戦争。ひとの世の苦しみは、太古の昔からまるで変わっていません。
相変わらず地震はくるし、年をとるほど身体のあちこちにガタも来る。だからと言って、そのたびごとに落ち込んでいたら、とても死ぬまでもたない訳ですが、ただ、どんなにタフな人であっても、自分の手足をもがれる以上に耐えがたく感じるるのは、最愛の者に先立たれることでしょう。
例えば、平安時代末期に起きた大飢饉の際に見聞きしたことを踏まえて、鴨長明は『方丈記』に次のように書いています。
去りがたき妻、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて、かならず先立ちて死ぬ。その故は、我が身をば次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。
今週のみずがめ座もまた、いま身に迫っている危機と向き合っていくことで、自分なりの「力への意志」を再確認していくべし。
みずがめ座の今週のキーワード
ベートーヴェンの『歓喜の歌』