みずがめ座
半身の祈り
負い目を引き受ける
今週のみずがめ座は、リルケの「立像の歌」のごとし。あるいは、「あたたかい血潮」に憧れる石像のごとく、祈りを刻んでいこうとするような星回り。
石像が、みずからに「生命」の熱い血が脈打つことを望んだとき、みずからの「生命」を犠牲にして自分をよみがえらせてくれた、だれか。そしてそんなだれかを思って泣く石像。
たいせつな生命をふりすててまで/わたしを愛してくれるのはだれだろう
だれかがわたしのために/海に溺れて死んでくれたなら
わたしは囚われた石からときはなたれ/生命のなかへ/よみがえることができるだろう
石はこんなにも静かだから/わたしはあたたかい血潮にあこがれ/生命を夢みている
ああ、だれか/わたしをめざめさせる/勇気をもつものはいないのだろうか
けれど、わたしが/生命のなかによみがえったなら/わたしは泣くだろう
わたしが捨て去った石を想って泣くだろう
純粋な贈与と呼ぶべきものは、「自分へのご褒美」といったごまかしによっては決して与えられず、かならず他者から受けとるという形で実現されるのです。
8月8日にみずがめ座から数えて「プレゼント」を意味する7番目のしし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、すでに受取ったものへの返礼として自身の営みを改めて再定義していくことがテーマとなっていくでしょう。
ダブルボディーな私たち
人は誰しも手土産ひとつなしに、ただ命だけを授かってこの世に登場し、しばらくの間その授かった命一つを息吹かせたら、また何も持たずこの世を去っていく。
しかしそれだけでは心許なく感じるのも人間であり、自分の中や周囲に身分や資格や名誉、習得した技術や資産、家族や友人、パートナーなどをまといつかせ、それらをまるで目に見えない衣装のように着込んで初めて生きた実感を得ているようにも見えます。
古代ギリシャでは、前者のような「剝き出しの生」や「内在の身体性」をゾーエーと呼び、後者のような「社会的な生」をビオスと呼んで区別しましたが、今週のみずがめ座もまた、通常はすっかりごっちゃになってしまっているこの両者の区別を改めて迫られていくはず。
すなわち、安定的な生の拠り所であるかのようなビオスこそ、自分の溌溂とした魅力や創造性を奪う拘束服に他ならず、愛を受け取ったり与えたりするのはむしろゾーエーの次元で行われるのだということ。今週のみずがめ座は、それを誰かの声を契機に思い出していけるかどうかがテーマなのだとも言えます。
みずがめ座の今週のキーワード
「王様は裸だ」