みずがめ座
存在とダンス
文字を捨てて
今週のみずがめ座は、ケルトの渦巻き模様のごとし。あるいは、ほどきつつ、からみつつも自分自身を「脱中心的」なものとして感じていくような星回り。
ケルトはキリスト教以前に中西部ヨーロッパに住み、ケルト語を話していた民族で、相当な文明を持っていたにも関わらず、文字をもたないことや強力な大国をつくる意図がなかったこともあって、キリスト教文明によってだんだんと消滅させられていった。
では、そんなケルトのどんなところが面白いのか。例えば、鶴岡真弓さんと辻井喬さんの対話『ケルトの風に吹かれて』の中で、辻井さんは次のように述べている。
「ケルトの文化のあり方として非常に面白いなと思ったのは、中心というのかな、これがケルト文化のメッカである、中心だというのがないんですね。それは、なくて当然で、遍在しているのですから、中心があったら近代的になってしまう」
ケルトは渦巻き模様をとても大事にしていたけれど、それは絶対的な中心を作って、それへの関係に基づいてすべてを明確に区別していくという西洋的なモデルとは対極にある、あらゆるものが互いに絡み合いつつ絶えず全体を変え続けていくという「脱中心的」な世界観こそが彼らの根本だったからだろう。
3月3日にみずがめ座から数えて「遊び」を意味する5番目のサインであるふたご座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、近代文明をいきなり捨てることはできずとも、どこかで渦巻き模様のように自身を解体しつつ、ケルト的なものを取りこんでいく遊びに興じてみるといいかも知れない。
ルソーの散歩
18世紀にルソーが「自然に帰れ」という言葉を流行らせて以降、自然保護ということを殊更に強調する文化の下地がヨーロッパを中心につくられていったようになったが、一方で面白いのは、ルソーによる「自然の発見」以前には、山や森などの自然は畏怖されるべきものではあっても、けっして気軽に親しんだり、ましてやレジャーやスポーツのフィールドとして見なされるような対象ではなかったという点。
つまり、彼こそは世界を‟遊び場”に変えた偉大な先達のひとりなのであり、その様子がよく分かる一例を、彼の晩年の著作である『孤独な散歩者の夢想』から引用してみたい。
「たそがれが近づくと、島の峰をくだって、湖水のほとりに行き、砂浜の人目につかない場所に坐る。そこにそうしていると、波の音と、水の激動が、僕の感覚を定着させ、僕の魂から他の一切の激動を駆逐して、魂をあるこころよい夢想の中にひたしてしまう。
そして、そのまま、夜の来たのも知らずにいることがよくある。この水の満干、水の持続した、だが間をおいて膨張する音が、僕の目と耳をたゆまず打っては、僕のうちにあって、夢想が消してゆく内的活動の埋め合わせをしてくれる。そして、僕が存在していることを、心地よく感じさせてくれるので、わざわざ考えなくてもいい。」
こういう文章を読んでいると、散歩というものもにわかに気分転換以上の意味を帯びてくるのを感じないだろうか。
今週のキーワード
『ケルトの風に吹かれて』