みずがめ座
物語を編みなおす
ふたつの宇宙の中に生きる
今週のみずがめ座は、運命の女神モイラの製作ないし調整現場をのぞいていくような星回り。あるいは、自身の生きる「小さな物語」に飽き足らず、「大きな物語」を求めていくこと。
ギリシャ人が「モイラ」と呼んだ運命は、乙女としての満ちていく三日月、多産な妻としての満月、老女としての不吉な新月といった月の満ち欠けの三位相の象徴であると同時に、運命の糸を紡ぐクロト、その糸の長さを測るラケシス、そして糸を断ち切るアトロポスという三人の女神として表象され、しかも神々でさえも彼女たちに縛られているのだと言います。
つまり、ギリシャ人にとっての「運命」とは、今日一般にイメージされるような個人の人生という限られたスケールに留まらず、この世のあらゆるものが彼女たちの編み込んだ縦糸と横糸という空間と時間の配列に支配されているのであり、その法則に背いた者がいれば彼女たちはたちまち「正義の使者」となって調整および復讐が果たされたのです。
その意味で、いわゆる「運命の赤い糸」とは血塗られた呪縛に他ならず、命の重みをもって交わされた厳格な約束事としてのニュアンスが込められていたのだとも言えます。
そして、現代人があくまでひとつの宇宙の中で暮らしているのだとすれば、古代や中世の人たちというのは大宇宙マクロコスモスと小宇宙ミクロコスモスという互いに対応しあうふたつの宇宙に生きており、あらゆることが大宇宙の影響によるものと考えられていました。
今日の社会では何かよからぬことが起きても「自己責任」として、あくまで当の個人の努力の不足や不注意などにその原因が求められ、おいそれと社会のせい世の中のせいと言えない空気が支配していますが、今週はひとつ古代人になったつもりでおのれの生きる物語を大いに社会の仕組みや世の中の潮流と結びつけていきましょう。
たて糸とよこ糸
大本教の出口王仁三郎が宗教を織物にたとえた際に詠んだ「綾機(あやはた)の緯糸(たていと)こそは苦しけれ/ひとつ通せば三度打たれつ」という歌について、美学者の高橋巌は次のような解説を加えています。
「たて糸は緊張しきって、変化せずに機にかかる「必然」の役割をもっているのに対して、よこ糸は右に左にたて糸の間をくぐっては、そのつど新しい綾を織り上げる「自由」の役割を担っています。そしてその「自由」を実現するためには、そのつど二度、三度と筬(おさ)できびしく打たれるのです。彼は神道の用語を使って、たて糸は火であり、よこ糸は水であり、そしてこのたて糸とよこ糸の接点の働きをするのは伊都能売(いずのめ)の神であるといっています。」(『神秘学から見た祈り』)
「伊都能売神」とは、平たく言えば「愛の神」のこと。たてに、時代の流れとか強い目的意識があるとして、その必然の間を、異なる文化や言葉が行き交い、個性の異なるさまざまな人たちが右往左往する自由がある。
その衣食住の自由はきびしく打たれる苦しみを伴うが、よこ糸が多様であればあるほど、織りあがったときの美しさが増すのです。
あなたがいま紡ぎ出している織物は、自分が納得できるほどの美しさを保てているでしょうか?
そんなことを自身に問いつつ、わたしという物語のほころびを繕っていきたいところ。
今週のキーワード
三千世界一度に開く梅の花