みずがめ座
circumistanceなself
ハーモニーか不協和音か
今週のみずがめ座は、「胡坐してをればおのれも梅雨深し」(脇村禎徳)という句のごとし。あるいは、薄暗い迷宮か絢爛たる小宇宙か、おのれの器の中身があきらかにされていくような星回り。
足の裏をあおむけにして両足を組んだものが「結跏趺坐」と呼ばれ、悟りを開いたときの釈迦や座禅をするときのすわり方だが、掲句ではそんな大仰なものではなくて、ふつうの胡坐だろう。
何気なく座しているだけで、しとしとと降りしきる雨と一体となっていって、やがて梅雨の深みに至るような気がしてくる。はじめは気になっていた雨音がだんだん気にならなくなって、しんと心が静まっていく。そんな姿を思わず浮かべてしまう一句です。
あるいは逆に、雨音につられて内なる不協和音がにわかに騒々しく倍加していく人もいるかもしれません。
雨音はあくまで触媒。そこで問われてくるのはあくまで心の内側で奏でられている音楽なのであり、今週はその嘘いつわりない実態がみずからに突きつけられていくでしょう。
オルテガの省察
スペインの思想家オルテガは『ドンキホーテをめぐる省察』の中で
「私とは、私と私の環境である。したがって私がもし私の環境を救わなければ、私自身は救われないことになる」
と述べていますが、これは今のみずがめ座の心境をきわめてニュートラルに描写したものと言えるでしょう。
「circumistance」という言葉は、「周りに立つ」という動詞の名詞形で、そこでは環境は寡黙に、しかし顧みられることを熱望しながら、私の周りに立っている訳です。オルテガはさらにこう続けます。
「人間は、自分を取り囲む環境について十分な認識を得たとき、その能力の最大限を発揮する」
つまり、胡坐した人もまた周囲の雨音への認識を深めることで、自身の能力を発揮し、結果的に当人の名が記憶される名誉が与えられたのですから、人間というのはやはり、皮肉な存在ですね。
でも、だからこそ愛おしいのだと思います。
今週のキーワード
逆説と皮肉の受容