おとめ座
虚心坦懐
あえてツッコませる
今週のおとめ座は、『水鉄砲水入れる間に撃たれつつ』(小川春休)という句のごとし。あるいは、自分の中の完璧主義を少しだけ崩してみようとするような星回り。
水鉄砲に水を入れるのが遅くて、すでに遊び相手に水鉄砲で撃たれてしまった、というのが大意でしょうか。どことなく、久々に遊びに来た孫と遊んでいる祖父といった情景が浮かんでくる一句ですが、本来ならあっという間の瞬間的なできごとを、俳句的な言いまわしで時間を引き伸ばし、五七五のリズムのなかでコミカルな「間」を作り出しています。
ちゃんと「撃たれつつ」もそこに居てくれる存在とは、言わばお笑いでいうボケであり、しかもここでは、ちゃんとこちらがツッコミを入れやすいように絶妙な間を空けてくれている訳です。
おそらく、何度でも訪れてしまいたくなるお店だったり、なんとなく帰りたくなる家というのも、こちらがすすんで我が身をはさみ込みたくなるような余地だったり、ちょっとした間みたいなものが、ごく自然な仕方で空けられているものなのではないでしょうか。
逆に、それ自体で自己完結していたり、完璧すぎたりしてしまうと、こちらが口や身をはさみ込む余地さえない相手や場所というのは、どうしても「居場所がない」と感じてしまいやすいはず。
同様に、14日におとめ座から数えて「居場所」を意味する4番目のいて座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、自身の生活やたたずまいにもまたそんな自然な間を空けるべく、なんとなくのんびりとしてみるといいでしょう。
「会読」の流儀
例えば江戸後期、各地の藩校は、身分制度のぬるま湯のなかにどっぷり浸かっていた上級武士の子弟たちに、どうしたら学問への意欲を湧かせるかという共通の課題を抱えていました。
当時最も一般的な動機付けの方法だったのは、学問することが主君への「ご奉公」なのだとする言説でしたが、そこで全国の諸藩の優秀な遊学生が集まった昌平坂学問所を皮きりに採用・制度化され普及していったのが「会読」でした。
それは文字通り「公開の場で共同で声を出し合いなされる読書」のことで、その後明治時代まで中頃まで隆盛していくことになるのですが、それはテキストの丸暗記の過程を終了した上級者同士が「一室に集つて、所定の経典の、所定の章句を中心として、互いに問題を持ち出したり、意見を闘わせたりして、集団研究をする共同学習の方式」(石川謙『学校の発達』)だったようです。いわば車座の討論会であり、そこでも当然、ボケやツッコミは日常茶飯事だったはず。
現代社会では、読書は静かな場所で孤独に行われるすぐれて内面的な行為とされますが、日本でも明治初期までは黙読ではなく音読が主流だったのであり、そこでは他人のために朗読することもまた、日常のそこかしこで頻繁に見られる光景でした。
今週のおとめ座もまた、ひとり孤独にというのではなく、誰かと一緒に、誰かのために活動していくことの楽しさ嬉しさを改めて見出していきたいところです。
おとめ座の今週のキーワード
心をむなしくして、構えを解いていくこと