おとめ座
ままならぬこととの距離の調節
分身への分離
今週のおとめ座は、カーニヴァルの仮面のごとし。あるいは、凝固した日常から自分を連れ出してくれるような分身を作り出していこうとするような星回り。
カーニヴァルであれ神楽であれ、お祭りの参加している踊り手や舞い手が顔につける仮面は、そこに神が訪れる媒体のようなものと考えられました。
それは人が日常ならぬ何ものかとコミュニケーションするための手段であり、仮面が促すままに動いていくことは、いわば平俗なるものの拒絶であり、存在することの苦しみや伊丹、不安感を手がかりとして、人を日常生活の<外>へと誘いだす装置でもあるのではないでしょうか。
それゆえに、往々にして人はまさにそうして非日常へと誘いだされるために、みずから「仮面」を被っては、遠いものを近くに引き寄せたり、逆に近すぎるものから距離を取っているわけです。
それは、歴史学者の網野善彦が言った「アジール(逃げ込み寺)」の1種であり、自分とそうでないもののあいだの領域を手の届く範囲に設けることで、人生において思い通りにならないモノやコトとの距離を調節しているのかも知れません。
同様に、23日におとめ座から数えて「自分とそうでないもののあいだの領域」を意味する7番目のうお座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、異界的な非日常性を感じさせる「仮面」や「分身」に否が応でも惹かれていきやすいでしょう。
先に相手に人格を与えること
文化人類学者のレーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』に出てくるシベリアの狩猟民ユカギールのハンターは、敵であり獲物である大鹿エルクを「エルクさん」とか「エルクちゃん」、いやむしろ敬愛を込めて「エルク姉ちゃん」として扱い、彼らを人間存在であると捉えているのだとか。
そして狩りに出る前には、人間との接触を避け禊ぎをして人間臭を消し、ウォッカや煙草などを火の中に投げてエルクの支配霊を淫らな気分にさせ、夢の中でみずからエルクに扮して「エルク姉ちゃん」を訪ね、性的欲望にくらんだエルク姉ちゃんと枕を共にする。そしていざ狩りの際には、エルクと人間の種族間の差異はすっかりぼやけ、一体化の危険を乗り越えて、最後はエルクを撃ち殺すのだという。
ここで興味深いのは、ウィラースレフが狩りの駆け引きの場面でハンターが何者であるのかは、ハンター自身のうちにではなくエルクのうちに見出されるのだと書いていること。つまり、自分ではなく相手に方にこそ先に人格が与えられていると直観することがハンティングの命であり、ハンターがハンターでいられる根本なのです。
その意味で、今週のおとめ座もまた、「自分が何者を見出そうとしているのか」ということをそうしたアニミスティックな感性のなかで改めて捉えなおしていくべし。
おとめ座の今週のキーワード
思い通りにならないもの、一に身体、二に他人、三四がなくて、五に夢見