isutaでは今週も、SUGARさんが贈る週間占いを配信。
星乃せいこさんによる「毎月の運勢グラフ」も配信しているので、こちらもぜひチェックしてくださいね♡
今週のおひつじ座の運勢
地が出てくるホイ
今週のおひつじ座は、自身の分身が顕わになっていくような星回り。
「打ちみだれ片乳白き砧かな」(泉鏡花)の「砧」とは、布を和らげるために布団を棒などで打つ台や、またその音のこと。掲句では胸もあらわに砧をうつ女性の姿が詠まれており、どこかただならぬ不穏さや狂気のようなものを感じさせますが、それはひとえに作者がそういうものに魅せられる人間であるということの表れなのでしょう。
どうも俳句というのは、詠めば詠むほど俳句の方が本人に似てくるものらしく、芭蕉は旅に、蕪村は絵に似ているし、作者の句もまたその怪奇趣味の小説に似ています。
本人の思いや癖を長年にわたり吸い続けた俳句は、だからこそある種の生命や力を持って人の心に訴えるのでしょう。あなたがもし長年にわたり俳句を詠んだとしたら、それは何に似てくるでしょうか。今週は、自分の分身のような何かに思い当たっていくことができるかも知れません。
今週のおうし座の運勢
ゆらゆら帝國
今週のおうし座は、自分をラクにしてくれるものに、大いに頼っていこうとするような星回り。
五代(10世紀)や北宋(10~12世紀)の時代の最も古い段階の山水画は、山頂が妙に丸みを帯びていたり、遠くの山々が霞の中に消えていたり、そもそも飛行機ほどの高さから見下ろした構図であったりと、実際の光景というより観念で描かれたもの特有の特徴が見られます。
例えば、11世紀の郭煕(かくき)の描いた「早春図」もまた、山そのものを眠りから覚めてむっくりと起きあがろうとしている巨人として描いており、冬から春に向かう自然界の「気」が山を生みだしたイリュージョンとして解釈することができる。山水画の鑑賞では、絵がいきいきとして感じられるとき「気韻(きいん)生動(せいどう)がある」などとも言いますが、そこには画家が思い描いた理想の神霊や気の流れが、ひとつのレイアウトやデザインとして刻み付けられていた訳です。
彼らはそれをただ描いただけでなく、きっとそうした気の流れの中に何度となく身を置き、遊んでいくことで、自身の英気を養っていったのでしょう。今週のあなたもまた、そうしたよい気を養うための時間や空間を大切にしていきたいところです。
今週のふたご座の運勢
辛酸なめ太郎
今週のふたご座は、深い水のなかに浸っていくような星回り。
「秋の暮水のやうなる酒二合」(村上鬼城)は、晩酌のうた。確かに一合ではちょっと物足らないし、三合では多すぎるとは感じますが、かといって「二合」がちょうどいいかと言えば、それもぴったりと言う訳ではないのでしょう。
作者の場合も、なんとなく「二合」を飲んでみて「水のよう」に感じた。つまり、普段と同じ酒であるのに、味が伝わってこなったのだろう。こういうのは晩酌としては面白くない。
仕事や人間関係で何かあって胸がつかえていたのか、心ここにあらずの状態だったのかも知れません。そんな風に静かな秋の夕暮れに、ひとり不機嫌なままに酒を舐めている男の姿には、酒の味はともかく、人生の深い味わいがあるように思います。あなたもまた、ゆっくりと人生を味わっていくだけを時間を確保されたし。
今週のかに座の運勢
河原で踊る仏像のごとく
今週のかに座は、いのちの通うような交流に身と時間を割いていくような星回り。
18世紀後半、北野神社に勢いを張る阿国のかぶき踊りに対抗して、京都の四条河原でも「女かぶき踊り」の喧噪が起こった様子が、円山応挙によって描かれています。遊女や女芸人などの女性芸能者たちが、琵琶法師の打ち鳴らす三味線のリズムにのって、歌や踊りを披露していたのです。
当然、そのまわりには多くの人びとや商人たちが集まり、芝居見物に会食、買い物、あいびき、喧嘩、夕涼みなど、思い思いの過ごし方でその場を楽しんでいったのでしょう。そこにはくるしい日常で削られ消耗した生命を取り戻すための、最後の手段としての声があり、集まった人びとはそれに身をまかせ、相応じて、生のことや死のことや、水のことや火のことについて想いを巡らせることができた。
「河原」とは、もともとそういう場所だったのであり、文化というのはいつの時代もそうした場所から生まれていったのです。あなたもまた、堂々と怪しい活動に身を投じていきたいところ。
今週のしし座の運勢
大きく飽き太郎
今週のしし座は、みずからをストレスゼロ状態へと促していくような星回り。
まだまだ天高し。空気が澄んで、視界も開けてくると自然と気分もよくなってくるものですが、その一方でイヤな奴のことも目に入ってきてしまう。すると、どうしても不愉快な気分になってくるし、足どりも重くなる。
「天高し不愉快な奴向うを行く」(村山古郷)では、誰もが上機嫌になることを前提にしたような季語を使って、あえてそういうことを詠んでみせている訳ですが、ただ掲句には、そんな状態にある人にも、まあいいじゃないですか、と朗らかに言い放つようなあっけらかんとした調子も通底しているように感じます。
天の目から見ればどの人もまた同じ人間であり、ちっぽけでかすかな存在に過ぎず、だからこそこうして互いに生きて交われていること自体が奇跡なのです。その上で、不愉快な奴であれ、向うに行ってくれたのなら、なおさら最高じゃないか、と。「天」であればそう言うのではないでしょうか。あなたもまた、自分にとっての最高善とはどんなものか想像してみるといいでしょう。
今週のおとめ座の運勢
影を見つめるマン
今週のおとめ座は、安定した秩序や穏やかで退屈な日常から、不意にはみ出していくような星回り。
古井由吉の長編小説『槿』は、四十歳を超えたばかりの男・杉尾の周囲に、三人の女性が集まっては交錯していくというあらすじ。そこでは誘いかつ拒む女性を前に、主人公自身もどうしたらいいのか分からなくなってしまうという場面が繰り返し登場してきます。
女性は拒みつつ誘い、誘いながらも男の視線を冷たくはじき返し、その両義的な姿勢のただ中で、甘い花粉を散らす花となって静止しているようでもあります。当然、男もまた困惑のなかで動きをとめ、「きわどい釣合い」によって宙を吊られ、「張りつめた静かさ」のなかで苦痛なのか何なのか分からないものがおこり立つ、精神的な修羅場のような地点に立ちすくんだまま、うつらうつらと半睡状態に陥っていくのです。
あなたもまた、恋愛だの友情だのといった手垢のついた言葉では形容することのできない微妙で複雑な、名状しがたい関わりへと誘われていきやすいでしょう。
今週のてんびん座の運勢
道楽者のなりゆき
今週のてんびん座は、究極の道楽を追い求めていこうとするような星回り。
「温泉(ゆ)にとめし眼を大切や秋の山」(前田普羅)は、ある秋の山道を登っているときのことを詠んだ句。木々のあいだから、時おり視界のはるか彼方の山腹に、そこを目当てにしている温泉の施設がチラと見えたかと思うと、いつの間にかまた見えなくなってしまう。
そこで、どうかあの温泉を見失わないようにしなければならない、ということを「とめし眼を大切や」という言い方で表わしたのでしょう。「ゆ」に「め」をという音の取り合わせにもリズムが感じられますが、これは作者が以前に体験した、登山のあとにつかる温泉の心地よさの記憶が重ねられているのかも知れません。
ただ、それはともすると容易に失われやすいものであり、目の前の雑事に追われているうちに雲散霧消してしまうものでもあるのです。この場合の「温泉(ゆ)」とは、翻ってあなたが今もっとも見失いたくないと感じているか、もう一度ぜひ体験したいと思っている何かを表しているのだとも言えます。あなたもまた、自分がいま一体何を目指しているのか、どこへ向かって苦労を重ねていくべきなのか、改めて見定めてみるといいでしょう。
今週のさそり座の運勢
単純人間
今週のさそり座は、普段とは異なるもうひとつの生活リズムを、用意していこうとするような星回り。
スイスの心理学者で精神医学者のカール・ユングは、都会での忙しい生活のかたわら、休日を利用して執筆にいそしむためにボーリンゲンという小さな村に石造りの簡素な家を建て、そこを隠れ家として使っていたそう。
そこで彼は朝7時に起き、鍋や釜に向かっておはようとあいさつをしてから、長い時間をかけて朝食とその準備をして、執筆や絵画や瞑想や散歩をし、またたっぷり時間をかけて夕食づくりにいそしみ、夕暮れの一杯を楽しんでから十時には就寝しました。彼は「ボーリンゲンでは、ほんとうの人生を生きている。とても深いところで自分自身になれるのだ」と書いてその極意を次のように結んでいる。
「電気のない生活のなかで、暖炉やコンロの火を絶やさないよう気をつける。日が暮れると古いランプに火を入れる。水道はなく、井戸からポンプで水をくむ。薪を割り、食事を作る。こういった単純な行為が、人間を単純にする。だが、単純であることが、いかに難しいか!」あなたもまた、自身をどれだけ単純にできるか試してみるといいでしょう。
今週のいて座の運勢
エモ山エモ太郎
今週のいて座は、体験知から自然と生まれてくるものを大事にしていくような星回り。
「月ありと見ゆる雲あり湖(うみ)の上」(清原枴童)は、一見なんてことない素朴な句のように見えますが、実際に視線をたどる経過を確認してみるとじつによく出来ている秀句。ある湖の上に夜の空がかぶさっており、雲がかかっているのではっきりとはしていないけれども、月のある晩のことであるから、薄ぼんやりと明るい。そして、あるところの雲を見ると他と比べて特に明るいので、恐らくはその辺りに月があるのだろう、というのです。
これをもし、「あの雲のかげに月あり湖の上」などと、あくまで月の居場所にこだわって詠んでいたなら、ただの説明となって句全体の印象もずっとうすかったはず。
見えている光景を自然に感じながら、次第にその「感じ」に奥行きが与えられていくことで初めて、想像力は活発にはたらいていく。作者はそのことを手や肌感覚で体得しており、掲句も自然に生まれたのでしょう。魂が動くような句というのは、必ずそうした体験知から結果的に生まれてきたものなのです。あなたもまた、客観的で科学的であるかどうかより、いっそ自分なりの「エモさ」を追求していくべし。
今週のやぎ座の運勢
昼寝の後のぼんやり
今週のやぎ座は、改めて自身の現在地点を捉えなおしていこうとするような星回り。
考えてみれば、僕たちはいつだって、前のめりになって未来を先取りすぎてしまうか、逆に落ち込んだり気にし過ぎたりして、過去に戻り過ぎてしまうかのどちらかに振り切れすぎており、<いまここ>にちょうどよく落ち着くことができずにいます。
その意味で、「いまは“まだ”・・・・でない」という意識と「いまは“もう”・・・・でない」という意識の双方に「いま」がパックリと口を開いているのだとも言える訳ですが、こうした「“もう”から“まだ”へ」という意識の移行を成立させる場所としての「いま」のことを、ハイデッガーは「拡がり(Dimension)」と呼びました。
これは「次元」と訳されていますが、もとはラテン語の「ディメチオール(測量する)」に由来していました。すなわち、断絶のない連続的なまとまりであることが「測る」の対象であり、少なくとも自身の感覚で測れる「拡がり」をもつある種の運動こそが「いま」の正体であると、彼は考えていた訳です。あなたは、もう何者かである自分と、まだ何者でもない自分とのあいだに、どんな「拡がり」を見出していくでしょうか?そこに留意するべし。
今週のみずがめ座の運勢
滑稽でもいいぢゃないか
今週のみずがめ座は、何気ない出来事やささやかな心の震えが、いつも以上に沁みていくような星回り。
「どうしようもない私が歩いてゐる」といった自由律俳句で知られた種田山頭火は、いくたびも酒の失敗を重ねたのち、最晩年に松山で庵を結んで、慎ましい暮らしの中で少しでもまっとうな人間になろうとあがいていました。
しかし「ずんぶりと湯のなかの顔と顔笑ふ」では、それでもわずかに残ったお金を時おり奮発して、道後温泉に浸かって、入浴後の一杯を楽しんでいたようです。掲句もまた、そんな一杯にありつけることを想像して、こみあげる嬉しさをなんとか抑えつつ句にしたためたのでしょう。
それは結局は酒をやめられない、滑稽で物悲しい人間の現実でもある一方で、妥協や諦めを繰り返しつつ、ささやかな楽しみに喜びを爆発させている無邪気な人間の真実でもあったように思います。少なくとも、この句にはどこか切ない魂の輝きのようなものが感じられるはず。あなたもまた、否応なく平凡で、取るに足らない些事にこそ一喜一憂していく自分を大切にしてみるといいでしょう。
今週のうお座の運勢
健全に生きるって何だろう
今週のうお座は、社会的な評価とは別に、あくまで生き物としての観点から自分を捉えなおしていくような星回り。
古代ギリシャの哲学者プラトンは人間を「天空の植物」と喩えたことがありましたが、12世紀のスコラ哲学者コンシュのギョームは逆に植物を「木々は自分たちの頭である根を大地に埋め込み、そこから栄養を摂取する」という言い方で表した上で、「逆に人間は、同様の頭を中空に露出している。なぜなら人間はおのれの霊性を糧として生きるからである」と述べていました。
実際、植物は根を通じて、自分が浸っている世界をめぐる情報の大半を獲得し、地中生活のリスクや問題を管理しているようですが、果たして人間は自分の魂の糧となる「霊性」すなわち重要なインスピレーションをキャッチするための「根」をどこまで張り巡らすことができているのでしょうか。
また、その一方で植物が「葉」を通して光と使って酸素と栄養をつくりだすように、人間は霊的なコミュニケーションを通して得たインスピレーションを日々の生活の中で、みずからの成長のきっかけや周囲を生かすための働きに変換できているのでしょうか。あなたもまた、自分がいま生き物として枯れかかっているのか、ぐんぐんと伸び広がっているのか、改めて問い直してみるといいでしょう。
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